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2018年04月15日20:56

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あらためて「悪の凡庸さ」について

「彼は愚かではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。」

ハンナ・アレント『イエルサレムのアイヒマン』より
出典は、後記のウィキべディア。

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ここで「彼」と呼ばれているのは、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺に対して大きな貢献をしたアドルフ・オットー・アイヒマンのことだ。アイヒマン問題、あるいはアレントの「悪の凡庸さ(陳腐さ)」に関するテーゼについては、何度か考えたことがある。しかし、考えるたびに、陰鬱な気持ちになる。

強制収容所所長を務め、やはりユダヤ人虐殺において主要な役割を果たしたルドルフ・フェルディナント・ヘスが書いた『アウシュヴィッツ収容所』 (講談社学術文庫)を読んだときにも、同じように陰鬱な気持ちになった。

陰鬱になるのは、彼らが凶悪であったり、狂気じみていたからではない。むしろ逆だ。彼らは冷静であり、論理的であり、さらに言えば哲学的でさえあった。それにも関わらず、彼らは、後から見れば(あるいは外から見れば)、「異様」「狂気」としか形容できないことを平然と行っていた。
彼らの弁明を読むと、彼らは単に平凡な、あるいは有能な「事務官」でしかないように感じられるのだ。そして、彼らと自分(僕)の間には、ほとんど違いが無いようにも思われるのだ。つまり、僕が、彼らと同様な環境に置かれたとしたら、僕自身が彼らとは違う行動をとり得るかどうか自身が無いのだ。
そのことが、たぶん、「陰鬱」な気持ちになる最大の理由なんだろうと思う。

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「医は仁術なり」という言葉があり、医療の本質には、倫理的な要素が深くかかわっているとも言われている。
では、倫理的に認めがたいような人体実験の成果を医学の立場で認めてよいのかどうか。
単に技術や知見の進歩に寄与したということだけで、医学的成果と認めてよいのかどうか。

アイヒマンの「悪」の生み出したものとして、アレントは「thoughtless」を強調する。引用した文章の中では「無思想性」と訳されているが、「思考の欠如」として考えた方がよいかも知れない。アレントは、後に『The Life of Mind(精神の生活)』の中で「思考」について探求することになる。
医学部に合格する人や国家公務員として出世する人は、一般的には「頭のよい人」ということになる。しかし、そうした「優秀な人」に、アレントの言う意味での「思考」が欠落していることは、充分にありえることなのだ。

そうした「思考の欠落した」「優秀な人物」が、各界で出世し、権威となり、あるいは権力を奮うということは、今でも、どこでも、あり得ることなのだ。

そのことを考えると、僕は、ますます陰鬱になる。

731部隊という問題も、そうした事態の「ひとつの例証」に過ぎないのだろうと思っている。

■『イエルサレムのアイヒマン』(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3
■ハンナ・アーレントと「悪の凡庸さ」(武田尚子)
http://www.alter-magazine.jp/index.php?122%E5%8F%B7%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%80%9C%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%95%E3%80%8D

■「731部隊」隊員らの実名開示
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5072114
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