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2018年01月21日19:20

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西部邁のこと

「解釈学は自己と時代のあいだのいわば弁証の過程なのであり、それは、未来への展望の下に過去を想起して生きるほかない人間の、生の形式にのっとっている。」

『経済倫理学序説』(中公文庫・1991年)p.20より

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本の整理をしていたら、嫁さんが「西部邁が死んだらしいよ。自殺みたい。」と言ってきた。西部が死んだことよりも、僕が西部の本を読んでいることを嫁さんが知っていることの方に驚いた。何かの折に、西部が(札幌南)高校の先輩であることを話したことがあったかも知れない。

西部邁の本で手元にあるのは何だろうかと思ってみたら、『経済倫理学序説』と『日本の保守思想』(ハルキ文庫・2012年)が文字通りに「座右」にあった。

前者は1983年3月、つまり僕が高校を卒業した月に単行本が出ている。
1983年は、マルクスの没後100周年の年であり、ケインズとシュンペーターの生誕100周年の年だった。そのためにちょっとした経済学説ブームのようなものがあり、ケインズとヴェブレンを取り上げた『経済倫理学序説』も、そうした雰囲気の中で読んだ記憶がある。今では「経済倫理学」という言葉を聞いてもそれほど奇異には感じないが、当時は目新しい言葉であったはずだ。内容については、経済学を倫理の面から論じるにあたって、アダム・スミスやピグーやマルクスではなく、ケインズやヴェブレンを取り上げていることに不思議を感じたことを覚えている。

前後して「20世紀思想家文庫」の『ケインズ』(岩波書店・1983年)も読んだので、僕にとっての西部の第一印象は、ケインズ経済学を思想(倫理)の側面から解説する人というものだった。

去年は『六〇年安保―センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋・1986年)という本を図書館で借りて読んだ。今は応用倫理学の泰斗として著名な加藤尚武のあまり倫理的ではない学生(ブント)時代のことなどが描かれていて面白かった。

『日本の保守思想』は、「保守思想の源流」として最初の章で福澤先生を取り上げていることに興味を持って古本屋で買ったのだが、まだあまり読んでいない。今、あらためて見ると、夏目漱石、和辻哲郎、吉田茂、吉本隆明など面白そうな人々を取り上げている。
今はちょうど漱石の『こころ』を読んでいるところだが、ひと段落したら、西部も読み直してみようかと思っている。

リクールを読み、ハイデガーについても少しは分かりかけてきた今ならば、『経済倫理学序説』もかなり違って読めるかも知れない。

【追記】
西部さんの死が「自殺」というのは、あまり意外な感じはしませんでした。
理由は色々とありますが、一番「外面的な」理由としては、ある種の価値観(生死観・美学)を持った人にとっては、自殺というのはそれほど不自然な死に方ではないということがあります。川端康成とか江藤淳とか。

ところで、今あらためて『経済倫理学序説』を読んでみると、彼が解釈学というものの可能性に賭けようとしていたことに興味を覚えました。20世紀中の僕は解釈学については何も理解していなかったので、その意味では西部の本も読めていなかったと思います。
僕はケインズの思想をイギリス経験論の深化という視点から考えてみたいと思っているのですが、ケインズの思想が、西部の思想の保守化に影響を与えたのか否か。いずれ、そんなことも考えてみたいです。

■若き日の加藤尚武先生?(2017年02月15)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958695885&owner_id=2312860

■<自殺か>評論家の西部邁さん死亡 東京・多摩川で見つかる(毎日新聞)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180121-00000036-mai-soci

■評論家の西部邁さんが死去 多摩川で自殺か
(朝日新聞デジタル - 01月21日 16:48)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4952475
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