mixiユーザー(id:5087127)

2018年01月21日00:07

129 view

歴史之雑談帖(その197)―本能寺の遺構発掘

右手首の筋を違えて、パソコンのキーボード操作が思う様に行かず、暫くパソコンに向かう事もしませんでしたが、幾らか良くなったので。

さて、日本史史上屈指の暗殺事件、と言えば本能寺の変を挙げても異論は少なiいか、と思います。当時の本能寺の敷地の広さについては、二町説もあったそうですが、それを否定する様な遺構が出て来た様です。

<引用開始>

本能寺、敷地は「1町」の範囲にあり 2町説を否定する畑の遺構確認

戦国武将、織田信長が全国統一を目前に配下の明智光秀に討たれた「本能寺の変」の舞台になった本能寺(京都市)の敷地は当時、1町(120メートル四方)の範囲だったことが20日、民間調査会社「国際文化財」(東京)による発掘調査で分かった。敷地は1町分とする「1町説」のほか、さらに南北に細長く広がった2町分とする「2町説」もあるが、今回の調査で2町の範囲内から畑の痕跡を確認。今後、2町の部分から建物跡などを検出する可能性は低いとみられ、2町説は否定される形となった。

◆耕作土や水だめ用?の穴
これまでの調査や古文書などから、天正10(1582)年の本能寺の変当時の境内は、現在の寺域(京都市中京区)から西約1・5キロの平安京左京四条二坊十五町(現・同市中京区)にあり、少なくとも西洞院(にしのとういん)通や六角通などに囲まれた1町分はあることが確認されている。江戸時代の国学者、森幸安(もりこうあん)が宝暦3(1753)年に作成した絵図では、境内が十五町のさらに南か北に1町分加えた細長い2町にまたがるように描かれ、2町説の有力な根拠になっていた。

今回、マンション建設に伴い平成28年8月から3カ月間、1町の北隣を発掘調査。その結果、寺の建物の存在を裏付けるような跡は出ず、当時の土器を含む耕作土や水だめ用とみられる長径2メートル前後の穴が2カ所出土。検討した結果、本能寺の変当時は畑だったことが判明した。

◆「光秀はこの畑を利用か」
 1町説の南隣は別の調査で発掘済みで、すでに寺とは関係ない遺構が出土していた。同社は「今回畑の跡が出たことで、さらに本能寺に関係する建物跡が出る可能性は極めて低い」と結論づけている。同志社女子大の山田邦和教授(考古学)は「興味深い結果。道幅が狭く、それなりに家がたて込んでいた本能寺周辺で、光秀はこのような畑を利用し、1万人にも及ぶ軍勢を展開させていったのではないか」と話している。

■本能寺 法華宗本門流の大本山。創建は応永22(1415)年にさかのぼる。寺域は火災などで転々とするが、現在の京都市役所前の境内は本能寺の変で焼失後に移転。本能寺の変では、宿泊していた織田信長を、明智光秀が率いる軍が取り囲み、信長が討たれたとされる。付近では、これまで数度にわたる発掘調査により、変で焼けた瓦片や溝などの遺構が出土している。
.
<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/west/print/180120/wst1801200078-c.html

これほどの大事件の舞台となった所でも、未だ良く分かっていなかった事があったのでありますね。
1 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する