mixiユーザー(id:48131024)

2017年10月22日15:05

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瞑想初門

願いも解放するものだが、
1年くらいは、真剣に打ち込むのもありだ。
瞑想は、一真一剣であるべき。
死するか、活を得るか、程の処に悟りがある。
さしても、ウサギと亀なら亀であろう。
一歩一歩の積日の果が、道果だ。
一々の瞑想果に忘れがちだが。
初心忘れるべからず。
仏身の常楽我浄を獲るべく。
勤坐するのである。
高い処では、イメージ自体をどうこうという向きもある。
自然、受け入れ、捨てる去る。
そういった陰徳が大切だ。
それにしても涅槃を目指すのである。
回答は涅槃の悟りにあろう。
至って分かるのだ。
果を積み、景勝を得て、道の奥に到れば、
色々と不要な事が分かる。
また真願も可能性を見出す。
私は一年程籠もったし、死ぬ程の瞑想も求めた。
結局はゴータマブッダを、追いかけたのだ。
事跡を思い、菩提樹下を思い、
教えを偲んだ。
在世の時にも、実践しなければ私は遠い。
私はいなくとも実践するなら、私の近くにいる。
そういう訳だ。
そして内観には仏が待つ。とも考えた。
実際見たりもする。
そして、これだけは言っておく。
苦しい時こそ瞑想だ。
苦しみから解放されなければ、
何のための瞑想か?
だから自分探しを苦しみ探し、と考えもした。
内在しているものだから。
それにしても貞めるべきである。
生活も自己も。
瞑想果には、一真一剣。
奥また元、小さくも、大きくも、
である。
深めよ。おもむけ。養え。
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