願いも解放するものだが、
1年くらいは、真剣に打ち込むのもありだ。
瞑想は、一真一剣であるべき。
死するか、活を得るか、程の処に悟りがある。
さしても、ウサギと亀なら亀であろう。
一歩一歩の積日の果が、道果だ。
一々の瞑想果に忘れがちだが。
初心忘れるべからず。
仏身の常楽我浄を獲るべく。
勤坐するのである。
高い処では、イメージ自体をどうこうという向きもある。
自然、受け入れ、捨てる去る。
そういった陰徳が大切だ。
それにしても涅槃を目指すのである。
回答は涅槃の悟りにあろう。
至って分かるのだ。
果を積み、景勝を得て、道の奥に到れば、
色々と不要な事が分かる。
また真願も可能性を見出す。
私は一年程籠もったし、死ぬ程の瞑想も求めた。
結局はゴータマブッダを、追いかけたのだ。
事跡を思い、菩提樹下を思い、
教えを偲んだ。
在世の時にも、実践しなければ私は遠い。
私はいなくとも実践するなら、私の近くにいる。
そういう訳だ。
そして内観には仏が待つ。とも考えた。
実際見たりもする。
そして、これだけは言っておく。
苦しい時こそ瞑想だ。
苦しみから解放されなければ、
何のための瞑想か?
だから自分探しを苦しみ探し、と考えもした。
内在しているものだから。
それにしても貞めるべきである。
生活も自己も。
瞑想果には、一真一剣。
奥また元、小さくも、大きくも、
である。
深めよ。おもむけ。養え。
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