mixiユーザー(id:5087127)

2017年09月30日19:28

103 view

音楽之雑談帖(その67)―ズザナ・ルージイチコヴァーの訃報

某塔音盤店のウェブ・サイトを覗いていたら、ズザナ・ルージイチコヴァー女史の訃報が掲載されていました。ふうむ、そうでしたか。わたくしは女史の音盤は蔵して居りませんが、戦後を代表するチェンバロ奏者、という事ぐらいは認識して居りました。享年90、との事ですから天寿を全うした―第二次世界大戦中は、ナチスの収容所に送られたそうですから―と云ってもよろしいか、と思います。

<引用開始>

第2次大戦後のチェンバロの復興者、ズザナ・ルージイチコヴァー女史が9月27日、就寝中に安らかに亡くなったと、彼女の家族から発表されました。90歳でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

1927年、彼女はチェコ人の父とユダヤ人の母のもと、チェコの第4の都市、プルゼニで生まれました。初めはピアノを学びましたが、彼女の才能に驚いたピアノ教師のすすめでチェンバロに転向しました。その後、ワンダ・ランドフスカに師事することが決まりましたが、1939年にナチス・ドイツがチェコ全域を占領したため実現しませんでした。

1942年に彼女の一家はユダヤ人だったためテレージエンシュタットに移送されます。1943年に彼女の父は亡くなり、その後、母親とともにアウシュヴィッツ・ビルケナウ、ベルゲン・ベルセンへと移送されました。彼女は各収容所で想像を絶する残虐行為を目撃してきましたが、ベルゲン・ベルゼンについては「それまでも地獄だったが、ここは最悪の地獄だった」と述懐しています。

ホロコーストを生き残ったルージイチコヴァーはチェコスロヴァキアに戻り、体力の回復と音楽の勉強の遅れを取り戻し、プラハ音楽院に入学。1951年には音楽院で教職に就き、作曲家のヴィクトル・カラビス(1923-2006)と出会い、1952年に結婚しました。チェコスロヴァキア国内では共産主義体制に協力しなかったことから、活動をかなり制約されていましたが、1956年にミュンヘン国際コンクールで優勝すると、外国からの出演オファーが届くようになり、バロック音楽復興の旗手として活躍するようになりました。そして、1989年のビロード革命時にはプラハ音楽院とチェコ・フィルのストライキに主導的に関わりました。晴れて民主化が成ると、彼女は長く教職に就きながら、与えられなかった「教授」の肩書を初めて得ることができました。

<引用終了>

出典Web:http://tower.jp/article/campaign/2017/09/27/04

先達てワーナー・クラシックスから、バッハの鍵盤楽器作品全集が発売されていした。愛煙家の方々に取りまして、此処最近は肩身の狭い思いを余儀なくされているのでは、と思うのですが、このアルバムの写真では煙草を手に持ってのもの。女史は愛煙家だったんですかねえ。

大きな足跡を残された演奏家の訃報に接し、寂寥感を覚えずにはいられない所。謹んで故人の御冥福をお祈りしたいと思います。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する