忍耐は金だ。
何事にも。
見方を変えると、時間や努力の成果も、直ぐには現れない。
そういう忍耐もある。
怒りを堪える。これも大事な忍耐だ。
馬鹿みたいだし、損だが、忍耐だ。
忍べば、必ず良い果報になる。
怨みは怨みでは鎮まらず、怨み無きによって鎮まる。
これも忍耐だ。良い果報を結ぶ。
私は些か武道の術を知る。
しかし、やはり忍耐する。
忍耐の中で、こうやれば克てるはず。
と思いもする。
しかし結局しない。忍耐する。
忍耐の良果を知るからだ。
心に思うだけでも武術を習う甲斐はある。
まぁ兇刃とか走り人に備えるものだが。
武術というのは軽はずみな者には、凶器であり、
己を破りもする。
心根を云いもする。
しかし、私には必要な時があった。
その時には学んでいなかった。
そういう事だから、後にも必要な時があるかも知れない。
だから習う。
後にあろうがなかろうが、習うのだ。
必要な時に学べていなかったからだ。
私も軽はずみに用いはしない。
武道というのは敵を求め敵を作る一面があるからだ。
またやられまいと習うものだが、
凶器に用いれば、自分の影と戦うような事にもなる。
そういう修練は辛いものだ。
やられる前にやる。そういう類いに落ちる。
護身術とよく言うが、それは綺麗事でもある。
何故なら武術を為せば、敵が傷付くからだ。
結局は、傷つけ過ぎずに克つために武術はある。
己も勿論傷つきもするが、戦いの場であれば、
言うべき事ではない。
剣道に気を言うが、
これは己が傷つくを懼れぬ気である。
とにかく勝って場を収めるものだ。
だから兇刃や走り人と言う。
言ってしまえば、腕足一本やられても、喉を押さえるものだ。
それも寸に留めて。
武術家は心根が大事なのだ。
自制と忍耐、そして鍛錬。
また傷つくを懼れぬ気を養うものである。
話が随分饒舌になったが、
武道にも忍耐はあり、
忍耐の中に術を思うもありなのだ。
用いずとも習うものとも言える。
しかし、必要を感じるかどうかでもあるが。
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