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2017年05月01日09:06

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ヨハネによる福音書1章の1節は,”言(ことば)”よりも,”道”のほうがいいと思うが……

本日も,キリスト教の話題。反キリスト教のかたは,無視してください。

 あらかじめお断りしておきますが,読めば読むほど新共同訳は,よくできていると感心します。いろいろな先生方(牧師さん&神父様,言語学者の総称)の知恵&知識,研究成果を集大成したことだけのことはあります。

個人的には,色々意見をいいますが,これは,あくまでも,私が理解できるレベルの話です。決して,翻訳にあたられた先生方を,批判したり,否定したり,貶めようとする意志はまったくないことを断っておきます。


ヨハネによる福音書1章の1節は,

「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった 」

(新共同訳)

最近,華僑の神学生(日本留学の経験があるそうです)に,中国語の聖書を見せてもらったところ,

ヨハネによる福音書(約翰福音)1章の1節は

「太初有道,道與神同在,道就是神」

となっています。日本流に読み下すと

「太初(たいしょ),道(どう)有り,道,神と同(とも)に在り。道,是れ神なり」

となります。ここでの”道”は,易経にある,「形而上者謂之道、形而下者謂之 器」(形より上 なるもの、これを道といい、形より下なるもの、これを器という」の”道”で,柔道,花道,武道,などの道です

これを知り,個人的には,日本語版も

「初めに(形より上 なるものである)道があった」

のほうが,意味的にはしっくりくるなと思いました。

しかしながら,翻訳にあたられた先生方がこのことを知らないわけがない。そこで,改めて新共同訳をみてみると,

普通の日本語で使う”言葉”ではなく,”言(ことば)”

となっています。日本には,言霊の伝統があるので,なんとか”言葉”のニュアンスを捨て去ることができなっかったのでしょう。さりとて,”言葉”としてしまうと,”形より上 なるもの”というニュアンスが出てこない。そこで,苦肉の策として,

”言(ことば)”

とされたのではないかと推測いたします。易経での”道”の定義を知っている私にとっては,

”初めに,(形より上 なるものである)言(ことば)があった。……(中略)……。(形より下なるものである)万物は言によって成った。”

とすれば,分かりやすかったです。
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