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2017年03月24日12:18

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トゥルー・グリット



『トゥルー・グリット』
  かつて観たときは、ジョンウェインにオスカーをもたらしたあの名作のリメイクだと思っていたものだからダーティヒーローの姿を期待して観たのだが、終盤の少女を助けるため星空の下を駆ける主人公の、あまりにもファンタジーなムーヴに違和感を覚えてしまった。今回はコーエンズが探すものは誠実さとはなにか、というものを理解して観たからか、なかなかよかった。コーエンズはリメイクではなく原作の小説を映画化したようであるから、オリジナルをどうソニマージュして料理するかという彼らのセンスが光る。
  広大な風景はデヴィッドリーンやイーストウッドに任せるのであって、いつもの彼らのように、偶然のなかを生きる人間模様が表される。偶然のなか少女はチョイスをしていく。そして、本物の英雄と出会うのである。父親の復讐譚なのではなく、語り部としての主体に表される志向対象は、丘の上から見つめる四人のウォンテッドを倒す本物の英雄にある。誠実さがそこに発見されるのである。
  記憶としての通過儀礼はエル・スールのような初々しさも感じられる。けれど、ぺふぺふ病にかかる暇がないぐらい果敢な少女を通して表されるものは、やはりアメリカ的なのであり、とても牧歌的なのである。勇敢さと詩情がそこに表される。ルーシーモードモンゴメリ的であり、マークトウェイン的である。マティの直向きさは、この作品の凛としたものを造形する。
  コーエンズは多くの作品で、相手が聞いていようがなかろうがお構いなしにひとりで無駄口を延々とし続ける人物を描くが、この作品の主人公のルースター・コグバーンにもそれが表される。そうしたブラブラマウスもまた、この主人公の魅力となるものとなっていた。ラビーフとマティの和解もまたよいシーンであった。マットデイモンがキャストされたからこそ、あそこに生まれるものである。

P.S.
父親が殺した男に対する復讐譚ではない、とは少女の感情を追うにおいて、あまりにも物語構造のよった見方である。人物の感情を追うにおいて、復讐譚ではあるはずである。そうでもしなければ、偶然とはいえ、撃つことはなかったであろう。

エスタブリッシュシークエンスの倒れている父親へのトラックインショット、それに繋がるものとしての全体は、父親の残像への問いかけが表されるのであり、ルースター・コグバーンが何者であるかに織り成される。





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