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2016年10月04日23:44

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歴史之雑談帖(その177)―松代大本営の整備

大東亜戦争末期、来たるべき本土決戦(幸いにも結局は来なかった訳ですが)に備えて、現在の長野市松代に大本営が構築された事は割に知られているか、と思います(そうでもないかな)。かなりの部分が出来上がっていたのですが、実際に使われる事は無く、その後1960年代後半に起きた、松代群発地震の観測に使われたりもしたものでありますが、そんな事をリアル・タイムで覚えている人は少数派でしょう。
その松大本営址を整備して、公開しようと云う動きがあるそうです。

<引用開始>

松代大本営】大戦末期、本土決戦の最後の砦 移転先として極秘建造された地下壕の全容がついに…天皇御座所予定地跡も

先の大戦末期に皇居や政府機関の移転先として建設が進められた長野市の「松代大本営地下壕」のうち一般公開されていない「舞鶴山地下壕」について同市が、近い将来に保存や管理、公開ができないか検討に入った。舞鶴山地下壕の上には「天皇御座所予定地跡」など歴史的に重要な遺跡がある。当時のもようを後世に伝える貴重な史跡の取り扱いの行方が注目される。

舞鶴山地下壕は大戦最中の昭和19年に同市松代地区の舞鶴山に堀り抜かれた。大本営、天皇、皇后両陛下の部屋と宮内省(宮内庁の前身)の移転が予定されていたが、実現しないまま20年に終戦を迎えた。そして22年、地下壕の地盤が固いうえ、通年の気温変化が少ないといった理由で、地下壕と地上施設に中央気象台松代分室(現・気象庁松代地震観測所)が開設された。同分室には多い時で十数人の職員が常駐し、地震観測業務が継続されてきた。その間、一般の見学者は内部の一部エリアや展示室に入ることができた。

 しかし今年4月、気象庁のシステム更新に伴って解析業務を東京の本庁に管したため無人化された。これにより施設公開への扉は閉ざされ、一般来訪者が内部に触れる機会は年1回、10月に開催される見学会のみとなった。舞鶴山地下壕は今後、観測機器や書類などの整理を終えた後、所管が気象庁から財務省に移り、国有財産として管理される予定だ。同省への移管作業には数年かかるとみられているが、移管後に一般公開される見通しは立っていない。

財務省担当者は「一般的に戦争遺跡には崩落の危険など安全面の課題も多く、財務省として管理して公開することは難しいのではないか」と話す。そこで長野市は、同省から譲渡や貸与を受けることにより、将来的に責任をもって保存や管理、公開する道筋を模索することになった。加藤久雄市長は8月24日の定例記者会見で「天皇、皇后両陛下の御座所もあり、非常に貴重な施設だ。市として保存、公開も視野に入れて考えたい」と述べた。

一方、舞鶴山の近くにある「象山地下壕」については、市が平成元年から約500メートル部分を管理して無料で公開しており、年間10万人前後の見学者が訪れる。松代大本営地下壕の保存活動や観光客向けのガイドを行うNPO法人「松代大本営平和祈念館」の花岡邦明理事長(65)は、産経新聞の取材に対し、「終戦から71年が経ち、直接語ることができる人が減っている中で、当時を物語る戦争遺跡は貴重。市民の学習の場として広く公開してほしい」と語る。

○松代大本営地下壕 先の大戦末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘裏に大本営や政府各省などを移す計画で昭和19年11月から翌年8月の終戦の日までの9カ月間で建設され、全工程の約8割が完成した。長野市松代町の舞鶴山、皆神山、象山に碁盤の目状に掘り抜かれ、総延長は10キロに及ぶ。

<引用終了>

出典Web:http://www.sankei.com/premium/news/161003/prm1610030001-n1.html

言及した松代群発地震が起きていた当時、わたくしは小学校中学年〜高学年に差し掛かる頃でありました。丁度某TBSで『ウルトラQ』『ウルトラマン』の放映がされていて、すっかり怪獣マンセー餓鬼んちょだったわたくしは、「いや。実はあの群発地震は、本物の地底怪獣が起こしているもので、何時か地面から出て来るに違いない」と、あらぬ妄想を抱いたものでした。戦時中の遺跡や遺物、或いは当時の軍用兵器といったものには、じかに接する機会が少ないのでありますが、整備が出来上がって公開されたらば(北陸新幹線を使えば、1時間半弱で長野迄行けるので)、ちょっと行ってみたいと思います。
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