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2016年08月16日01:03

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読書感想文綴方帖(その30)―漱石紀行文集 岩波文庫

苦しくなると岩波書店は、漱石全集を出して一息付く、とは昔からまことしやかに言われる所ですが。此処の所、全集は余り売れないのか、先達て『漱石追想』と題する編纂本を出したばかりなのに、また岩波文庫から今度は『漱石紀行文集』と云う、漱石自身の手になる紀行文を集めた本が出ました。
色々出るのは、全集以外では中々読み難い作品を読めるので、有難い半面またまた本が増える一方なので、些か閉口であります。そうは言っても手元に全集が無いので、親しく接する折角の機会を生かさぬ手はあるまい、と早速買って来ました。

この本は、わたくしの独断と偏見では、漱石の作品中最も自身のプライベートな部分が描かれている(逆にそれだけに一般の文芸評論家辺りには頗る評判の悪い)『満韓ところどころ』が収録されているのが、大変嬉しい所。この作品は、他の作品と違って友人の中村是公の誘いで、満州に出掛け、その後韓国に回った紀行文でありまして。色々と小説としての工夫を凝らす必要がなかった為か、筆致が実にのびのびとしていまして。

また、至る所に鏤められている、江戸っ子漱石の諧謔的な味わいが堪えられないのでありまして。作品の冒頭、『南満鉄道会社って、一体何をするんだい』と真面目に尋ねる相手が旧友である中村是公なのは兎も角、彼は当時満鉄総裁というのでありますから、『満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前も余っ程馬鹿だなあと云った』と云う、良く出来た漫才の掛け合いの様。そしてその次の漱石の反応が、『是公に馬鹿と云われたって、怖くもなんともないから黙っていた』に至っては、初めてこの作品を読んだ高校生当時(確か学校の図書室で、漱石全集で初めてこの作品を読んだのですが)のわたくしは、文字通り腹を抱えて笑ったものです。

出掛ける直前になって、運悪く胃を悪くして、医者から旅行を止められての感想が、『ご尤もだとも不尤もだとも答えるのが厭だった』と云う拗ねた様な筆致。また、満州に向かう船の中で、乗り合わせていた客の連れていた犬を『犬は頗る妙な顔をしていた。尤もブルドッグだから両親からして既に普通の顔とは縁の遠い方に違いない。従って特に此奴だけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだから已むを得ない』と云うケチョンケチョンの下りは、その後ホテルの食堂に迷い込んで来た時の描写と合わせると、見事なコントラストが取れていて、唸らざるを得ない所。

この作品は、『露助』や『チャン』と云った、今日的水準からみると差別的表現が随所に登場するので、それも評判の悪い一因らしいのですが、そんなに漱石を聖人君子の様に奉り上げなくたって、良いじゃないかとわたくしは思うのですがね。確か『茶話』でしたか、引っ越しをする際に、引っ越し直前迄の家賃の請求を受けた漱石が怒って、「金さえ払えば何をしても良いんだな」と、御座敷で立ち小便をした、なんてゴシップが伝えられているのですし。そうした時代の限界で、偏見があったとしてもそうそう目くじらを立てなくてもねえ。

他に『京に着ける夕』『自転車日記』『倫敦消息』と云った、全集以外では中々読む機会のない作品が収録されているので、大いに楽しみました。
只、個人的な好みでは、例えば『永日小品』辺りからテーマの共通する数編をセレクトして欲しかった所。まあそれでも、久しぶりに漱石の諧謔を楽しんだ一冊でした。
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