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2015年10月21日23:59

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慈円の哀傷-哀傷(4)-慈円(2)

前大僧正慈円

・皆人の知り顔にして知らぬかな必ず死ぬるならひ有りとは
・昨日見し人はいかにとおどろけど猶永き夜の夢にぞ有りける
・蓬生にいつか置くべき露の身は今日の夕暮明日の曙
・我もいつぞあらましかばと見し人を偲ぶとすればいとど添ひ行く

『定家八代抄』(岩波文庫・1996年)p.199から

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・誰もが皆、やがて死ぬことになるという宿命について、誰もが皆、知っているようで知らないようだ。
・昨日会ったばかりの人が死んだと聞いて驚いたものの、自分だって長い夜の夢の中で生きているようなものだ。
・自分など、葉っぱの上の露のようなものだ。消えてしまう(墓場に行く)のは、今日の夕暮れか、明日の朝か。
・長生きして欲しいと思っていた人が次々と亡くなってゆき、いつのまにか私の心も死へと向かっていくよ。

参考書などを見ないで、あえて自分流に訳してみた。豚訳。
(解釈としては、間違っているところも多々あると思います。)
いずれも新古今集に入集した慈円の歌。
定家が、「八代抄」の中にも引いていて、岩波文庫版だと、哀傷のうちの1ページを慈円が占める。
定家は、慈円を高く評価していたのだろう。新古今では、西行に次ぐ入集歌数とのことだから、当然かも知れないが。

この4首を見ると、慈円の歌は、比較的素朴で、素直なものが多いような気がする。
「前大僧正」(さきのだいそうじょう)という位はいかめしいが、歌そのものには、そうした高僧としての気負いや格式のようなものは余り感じられない。もっともこれは、これらの歌が「釈教」という枠組みではなく、あくまでも「哀傷」というジャンルの中で歌われているからかも知れない。
そうだとしても、これらの歌だけを見ると、名家に生まれた高僧というよりは、さすらいの放浪僧のような感じもする。

歌という世界の中では、人は地位や格式に囚われず、自分自身の中の素直・素朴なものを詠いだすことができるのかも知れない。

釈教の歌として、慈円がどのようなものを残しているかは、いずれ調べてみよう。

■慈円の歌(千人万歌)
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jien.html

■五十の闇-慈円(1)(2015年10月17)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1947039678&owner_id=2312860

■哀傷−『定家八代抄』(岩波文庫・1996年)から
(1)誰も遅れぬ世なれども-伊勢(2015年10月10日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946837770&owner_id=2312860
(2)とふかたの無き-藤原実定(2015年10月11日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946863312&owner_id=2312860
(3)今日は人こそ-紀貫之(2015年10月12日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946901334&owner_id=2312860

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