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2015年10月04日10:03

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頽廃耽美趣味-円地文子(1)

■円地文子
(1905-1986)東京生れ。国語学者・上田萬年の次女。日本女子大附属高女中退。早くから古典、特に江戸末期の頽廃耽美趣味に親しんだ。1935(昭和10)年、戯曲集『惜春』を処女出版したのち小説に転じ、『朱を奪ふもの』(1956年)『傷ある翼』(1960年)『虹と修羅』(1968年)の三部作で谷崎潤一郎賞、『遊魂』(1971年)で日本文学大賞を受賞。1967年より『源氏物語』の現代語訳に取り組み、1973年に完成。1985年文化勲章を受章した。

新潮社の著書一覧より
https://www.shinchosha.co.jp/writer/976/

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僕が知っている円地文子は、源氏物語の現代語訳の訳者としての円地でしかない。
彼女が古典研究家というよりは作家であることは知っていたが、具体的にどのような作品を書いているのかは知らなかった。ただ、古本屋などで円地訳の「源氏」を探していると、自然と彼女の小説にも目が向く。そして、著者紹介の欄くらいには目を通すようになる。

新潮社による紹介の中で興味が湧いたのは、「早くから古典、特に江戸末期の頽廃耽美趣味に親しんだ。」という部分だ。早くから直接に平安女流文学(物語)に親しんだというわけではないようだ。

1905年の彼女にしてみれば、江戸末期の文学を読むことに然程の苦労はなかったかも知れない。面白いのは、その江戸末期の文学の中から「頽廃耽美趣味」を選んだということだ。

谷崎潤一郎賞を受賞しているということも、僕は知らなかった。
谷崎と言えば耽美的な作品で知られているから、なるほど、円地の作品も耽美主義的なものだったのかと思った。

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ウィキペディアの「円地文子」の項を読むと、もう少し踏み込んだことが書かれていた。

「幼少時より病弱で、“病気の問屋”と呼ばれたこともあった。学校も欠席しがちだったことから中退し、その後は父などから個人教授を受け、戯曲及び古典日本文学に深い関心を持つようになった。」
「谷崎にはかわいがられ、1965年(昭和40年)に創設された谷崎潤一郎賞で第一回から選考委員を務めた。自身の小説への受賞を主張して反対に遭い、5回目に受賞したが、選考委員の武田泰淳は選評をまるごと使い、選考委員の受賞はあってはならないと批判した。」

病弱な文学少女が耽美主義にのめり込むというのは、それ自体が肉体的ではなく精神的な面で「病的」なものを感じなくもないが、円地においては、それが創造的な方面にも役に立ったのであろう。

「悲劇的に偉大な人物とは、すでにある種の病的素質を媒介として形成されるものだ。銘記せよ、大望ある若人よ、あらゆる人間の偉大さとは病にすぎぬのだ。」
(「白鯨」第16章より)

「谷崎にはかわいがられ」というのが具体的にどういうことだったかは分らないが、このことは、前に引用した円地の次の言葉に結びついているかも知れない。

「私は少なくとも谷崎先生のご在世中に、自分がその[源氏物語の]訳業にとりかかるのは不相応ではないかと思っていた。」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946397214&owner_id=2312860

谷崎賞の受賞が、選考委員である自分の自薦だったというのも、なかなか凄まじいエピソードだ。
それくらいの芯の強さがなければ、病をおして源氏物語の全訳を成し遂げることなど出来ないかも知れない。

■谷崎源氏(旧訳)における削除と円地文子(2015年09月25日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946397214&owner_id=2312860
■円地源氏が描く官能美(2015年09月26日)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1946400082&owner_id=2312860
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