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2015年07月11日08:25

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林望謹訳-柏木における引き歌(9)

■原文
「なのめならず思ひのぼりしかど、その心かなひがたかりけりと、ひとつふたつのふしごとに、身を思ひおとしてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、のちの世の行ひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の、重きほだしなるべく覚えしかば」

■林望(謹訳)『源氏物語(七)』p.8より
「あのこと、このこと、恋の望みが打ち砕かれるたびに、自分は駄目な男だと見下げ果てた思いがしてきた……昔の男は「大方のわが身一つの憂きからになべての世をも怨みつるかな(わが恋は実らなかった、それでなんとなくこの身の辛さが心を苦しめるから、おしなべて恋というものをなにもかも恨めしく思ってしまうことよ)」などと嘆いたが……なるほど、なにもかも、この世というものは、少しも面白くなくなった……こんなことなら、いっそ出家して仏の道に心潜めたいと、その願いばかりが募るけれど……しかしもし、私が世を捨てたりすれば、それはそれで、父や母の悲歎は並々ではあるまい。……思えば、「いづくにか世をば厭はむ心こそ野にも山にもまどうべらなれ(世を捨てると言ったところで、さてどこに身を隠そうか。この体だけなら、俗世から隠しおおせようけれど、心はそうはいかぬ。野にいても山にいても、心はやはり惑うてさまよってしまうだろうから)」と古い歌にあるように、野にも山にもさまよってゆく我が身にとって、父母の嘆きはきっと重い絆しになるに決まっている……ああ、「世の憂きめ見えぬ山路に入らむには思う人こそほだしなりけれ(世の中は辛いことばかりだ。そんな俗世のなにもかもが見えなくなる山路へ入って仏の道へ進むためには、心に思いをかける人を持っていることが絆しとなることよな)」と昔の人も嘆いていたとおりだ……」

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源氏物語における「引き歌」という表現技法が、現代語訳において、どのように表現されているか。
このことを調べ始めてから、林望の「謹訳」を読んでみて驚いた。

なんと、引き歌の全文を引用し、その現代語訳を括弧の中に記し、それらを脚注などではなく訳の「本文」に織り込んでいるのだ。
当然、字数は膨大なものとなる。原文では130字ほどのところが、訳では約4.5倍の580字ほどとなっている。
前から、林訳は「丁寧すぎる訳」だと思っていたが、丁寧もここまで行き届いているとは思わなかった(笑)。

こうしたやり方には、メリットとデメリットの両方があるだろう。

デメリットのうち主要なものは、次のようなことだ。

1.訳文の分量が、原文に比べて大幅に増える。つまり、読む労力が増える。
2.引き歌において元歌の全てを引用する意図がなかった場合、読者が文脈を誤解する可能性がある。
3.原文の簡潔さ(含意や余韻などを含めて)を味わうことが出来ない。

対して、メリットとしては、次のようなものがある。

4.和歌(引き歌)に関する知識が無くても、引き歌で表現された内容が理解できる。
5.頭注や脚注によらず、本文を通読するだけで、一通りの意味が理解できる。

これらを比較して、林訳を読むべきかどうかは、読者の側の選択の問題となるだろう。

僕自身の意見として言うならば、初めて源氏物語に触れるときには、林訳は避けた方がよいと思われる。
林訳は、あまりにも丁寧すぎて、その中に林の「解釈」も色濃く含まれているように思われる。
たとえ分かりにくくても、最初は谷崎か円地か瀬戸内訳で読み、原文に書かれていないことまでは読まない方がよいだろう。
いったん、他の訳か原文を通読したうえでならば、林訳の丁寧さは、読むに値する貴重なものだと思う。

そうした技術的なことは別として、林望の書く日本語は、この現代語訳に限らず、読みやすく美しいと感じている。


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