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2015年07月04日09:48

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上野榮子訳-柏木における引き歌(8)

■原文
「身を思ひおとしてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、のちの世の行ひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の、重きほだしなるべく覚えしかば、とざまかうざまに紛らはしつヽ過ぐしつるを」(以下略)

■上野榮子訳『源氏物語 第五巻』(日本経済新聞社・2008年)p.256より
「自分は、無力な者だと知って自信を失ってからは、すべての世の中を、殊更に面白くなく考え、後生安楽の勤行のために出家しようという志望が、深く積極的になってしまったけれども、親たちの御不満を考えると、その考えが、野にでも山にでも、所定めず歩き廻る出家修行の道の、大きな障害になりそうに思われたので、出家も敢行せず、あれこれと心を紛らわしながら暮らしてきたのであった。」

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上野榮子は、学者ではなく主婦とのこと。
主婦が源氏物語を全訳したということで、話題になったようだ。
宣伝文句には、
「作家版の『源氏物語』とは異なり、訳者の思い入れを排した原文に忠実な口語訳なので、紫式部の世界をそのまま味わうことができます。」
http://www.nikkeibook.com/genji/
と書かれている。

しかし、今回、上野訳を参照してみて、どうもシックリとこないところがあった。
よく読むと、日本語としてこなれていないところが目立つのである。

たとえば「志望」が「深く積極的になってしまった」というような言い方を普通の日本語においてするだろうか。

あるいは、「親たちの御不満を考えると、その考えが」「大きな障害になり」とあるが、障害となるのは「親たちの御不満」なのか、それに対する柏木の「考え」の方なのか。上野訳を文面どおりにとれば後者となるのだろうが、文意としては(あるいは「ほだし」の解釈としては)前者だとする方が素直なとらえ方だと僕には思われる。更に言うならば、ここでは「その考えが」という挿入そのものが不要ではないか。

「出家も敢行せず」するという表現にも違和感が残る。この場面では「出家をせず」というだけで充分だろう。

先日来、話題としている「野山にもあくがれむ道」の訳として「野にでも山にでも、所定めず歩き廻る出家修行の道」というのも、少しオーバーな表現だと思われる。柏木が思い描いた出家の姿が「所定めず歩き廻る」などという動的なものであったかどうか。西行や芭蕉の漂泊の道は、そのようなものであったかも知れない。しかし、柏木の「野山にもあくがれむ」思いは、もう少し静的なものであったのではないか。

どうも上野訳には、生硬な英文和訳のようなギコチなさが残っている。
生活者でありながら全訳を果たした偉業には敬意を抱くが、その訳が解釈のうえで参考になるかどうかには疑問が残る。

■『源氏物語─全8巻』上野榮子訳(日本経済新聞社)
http://www.nikkeibook.com/genji/
■『源氏物語』上野榮子訳
http://noboruizumi.blog103.fc2.com/blog-entry-283.html
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