mixiユーザー(id:2312860)

2015年07月03日22:25

394 view

あくがれむ道-柏木における引き歌(7)

■原文
「身を思ひおとしてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、のちの世の行ひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の、重きほだしなるべく覚えしかば、とざまかうざまに紛らはしつヽ過ぐしつるを」(以下略)

■円地文子訳『源氏物語』(新潮文庫・)より
「だんだんと自信を失うようになってからは、世の中のすべてが味気なく、後世のための修行に心が傾いていった。しかし、それでは、親たちが力を落とされるであろうと推し量られ、たとえ仏道の修行のために野山に起伏(おきふし)する身となっても、そのことが大きな障礙(しょうげ)になりそうで、決心がつかぬままに、あれこれとわが心を欺いて暮らしてきたのだった。」

■谷崎潤一郎訳『源氏物語 巻四』(中公文庫・2004年改版)p.7より
「自分の無力を悟るようになってからは、世の中が何によらず面白くなくなり、後世の修行を深くも志すようになったものの、親たちの御落胆を思うと、それが野山にさすらい出る道のために大きな妨げにもなりそうなので、何とかかとか気を紛らわしながら過ごして来たのに(後略)」

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・

源氏物語「柏木」の帖の冒頭の原文と3つの現代語訳を引用してみた。

原文の中の「野山にもあくがれむ道」という部分が、『古今和歌集』の中の素性法師の歌を引いている。
ただ、素性の歌では「野にも山にもまどう」となっているのに対して、柏木の独白の中では「野山にもあくがれむ」となっている。

「あくがる(憧る)」という言葉を古語辞典で引くと、以下のように書かれている。
1.心が体から離れてさまよう。うわの空になる。
2.どこともなく出歩く。さまよう。
3.心が離れる。疎遠になる。

これからすると、「まどう」と「あくがれむ」の間には、大きな意味の違いは無いのかも知れない。
ただ「どこともなく出歩く」「さまよう」「うわの空になる」というような状態を「仏道の修行」ととらえていいのかどうか、少し疑問が残る。そう考えると「野山にさすらい出る道」と婉曲な表現をとった谷崎訳が、原文に忠実であると言えるかも知れない。

もっとも、臨終の間際にあった柏木が「あこがれ」た、あるいは想い描いた「出家」の姿とは、「どこともなく出歩く」「さまよう」「うわの空になる」ようなものであったかも知れない。彼の出家への思いの実相は、その程度のものであったかも知れない。そこまで考えれば、円地の訳も間違いではない。

.:*:'゜☆。.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・'゜☆。'・.:*:・.:*:・'゜★゜'・:*:.。.:*:・

「いづくにか世をばいとはむ心こそ野にも山にもまどうべらなれ」
(古今集雑下 素性法師)

【訳A】玉上琢彌『源氏物語評釈』第八巻
「どこにいて、この世をいとう暮らしをしよう、出家してどこにいよう。身はよいが、心は、野にいても山にいても迷いそうだ。」

素性の歌についての玉上の訳に対して、僕は「元歌に即していないように感じられる」と書いた。
しかし、柏木の引き歌として理解するならば、柏木の誤読の可能性も含めて考えるならば、この玉上の解釈も間違いではないような気がする。

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する