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2015年04月29日22:15

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かもめのジョナサン「完成版」

「翻訳についてつけ加えておけば、これはいわば創作翻訳=創訳ともいうべきもので、小さな部分は自由に日本語に移しかえる姿勢をとった。カットした単語もあり、原文にない表現をつけ加えた場所も多々ある。それはこの原書がきわめて平易な文章で書かれ、自由に入手できるという点から、原文に即して味わいたい読者は、直接されに触れることが可能だと思ったからである。」

五木寛之『かもめのジョナサン』への「1974年版あとがき」より

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久しぶりに、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』を読み直した。
図書館の蔵書を調べたら、昨年翻訳された「完成版」が「貸出可能」となっていた。
昨年中は「貸出中」で予約もいくつか入っていたのだが、ようやく熱も冷めたようだ。

完成版は、従来の「第3部」までの作品に「第4部」が付加されたもの。ただし、この第4部は後に書かれたものではなくて、初版刊行(1970年)当時に既に書かれていたが、何らかの理由で掲載しなかったものだとのこと。

僕が『かもめのジョナサン』を読んだのは、高校2年生くらいのときだったと思うので、1981年頃ではないかと思う。1970年代にベストセラーとなった本なので、古本屋で安く買えたと記憶している。

借りてきた本で「第4部」を読み、それから第3部までを読み返してみた。
僕は、バックという作家は好きだが、この『かもめのジョナサン』は、ほどほどにしか好きではない。彼の作品の中では、パイロットとして書いたエッセイの方が面白いと感じている。

「第4部」を読んで思ったことは、これを削除して初版を出版したことは、「正解」ではなかったかということだ。
つまり、僕は「第4部」を「無くてもよいもの」と感じたのだ。第4部では、世俗化された信仰の対象について書かれている。偉人が聖者として祀り上げられ、偶像化されてゆく。その過程の愚かしさと汚らわしさについて書かれている。確かに、そうした「世俗」に対する批判は、当を得たものなのかも知れない。1970年以上に、2014年の世界にとって必要なものであったのかも知れない。

ただ、純粋に僕の好みから言うならば、そのような世俗ないし社会への批判は、「ジョナサン」の中では不要だと思われた。
「ジョナサン」の中で書かれるべきことは、「自由な飛行」が、人に(カモメに)教えてくれること。
それだけでよかったような気がする。

もうひとつ思ったこと。
それは、「翻訳」にともなうバイアスだ。
この本を「創訳」した五木寛之氏も、下訳を担当された國重純二氏も、たぶん「自由な飛行」とは無縁な人々だろう。
彼らの感覚に依存した邦訳が、果たして原著の持ち味を的確に表現しているだろうか。この本を読むときに、その問題について、もっと慎重に考えてみるべきだったかも知れない。

■飛行と文学に関する日記の目次
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1152455704&owner_id=2312860

■原書(第3部まで)
http://csermelyblog.tehetsegpont.hu/sites/default/files/angol%20sir%C3%A1ly.pdf
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