mixiユーザー(id:15707093)

2014年09月28日13:45

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予定説は難しい。

イスラム圏にいるために,信仰とは何かを常に意識せさるをえません。余談ながら,期末試験の前には,イスラム式の礼拝(アラビヤ語)があります。これに随分とビックとする日本人の先生もおられますが,私は,ミッションスクール出身なので,それほど違和感はありません。だたし,科目ごとにやるのはやりすぎで,朝1回やればいいのではとはおもいますが……。

予定説は難しい。かの内村鑑三ですら悩みに悩みぬいたことなので,信仰の浅い私のような者がそう簡単に理解できるわけがない。とは言っても,自分なりにどこまで理解できたかは,きちんとまとめとかないと先に進めないので,私なりもまとめてみました。誤解や誤りは,ご容赦のほどを……。

イスラム圏のラマダンや一日5回の礼拝をよく見ますが,どうも疑問も思えてきます。今更,呪術的な儀式にのめりこんでも無意味ではないか。一日5回の礼拝だって,起床時と就寝時,3回の食事の前に,1−2分行えば十分では?と(この程度だと日本人でも行っている人も少なくない)。それに費やす労役と時間を,もっと建設的な活動に振り向けほうがいいのではと……。ラマダンだって,聖職者のみが行えばいいのであって,俗人は,食事の量を減らすだけで十分では?少なくとも,水をのんではいけないはマズいのでは?

このように自分が考えてしまうことをつきつめると,予定説に行きつきました。

「自分が救済されるかどうかは,すでに決まっている。したがって,いまさらジタバタしてもしょうがない」

ここまでは,だれでもなんとなく理解できるでしょう。

そのつぎに,私の好きなことばは,

盡人事待天命(人事を尽くして天命を待つ)

です。このことばは,私は,中学生まで聖書のなかの1フレーズと思っていましたが,調べてみると,宋代の胡寅(こいん)という人が著した読史管見(とくしかんけん)という文献にあるそうです。 

さて,私の中では,

「自分が救済されるかどうかは,すでに決まっている。したがって,いまさらジタバタしてもしょうがない」

⇒盡人事待天命(人事を尽くして天命を待つ)

ということがごく自然につながるのです(正直いって,私が人事を尽くしているかというと,はなはだ疑問ですが……)。

ところが,

「救済されるかどうかは,すでに決まっているだから,人事を尽くす必要はないんじゃない。無駄では?」

と反論されると,何も答えられません。これが,私が長年悩み続けていることです。





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