『
そこのみにて光輝く』
紫陽花という名前のラブホテルがあったと記憶してる、もしかしてソープだったかも…。
劇中、季節外れに咲く紫陽花の花を見て、ふとそんなことを思い出した。(音読み、ね)
この映画に集う<行き場>のない者たちは、<生き場>もまた ない。
函館という地方都市の中心から外れた地には、光も十分に差し込まない。
あるのは『共喰い』を思い起こすような淀みのみ。
トラウマを背負った佐藤達夫(綾野剛)、一家を背負わされる大城千夏(池脇千鶴)、メンタルのコントロールができない大城拓児(菅田将暉)、全員壊れかけている。
原作は幾度と芥川賞候補になりながら結果に恵まれず、自殺した佐藤泰志の同名小説ということ。生き場のない主人公たちは彼の投影なのか。
今の日本映画には珍しいくらい役者を<きれいに>映さない。
匂い立つ体臭、ライティングの妙、心情とリンクする手持ちカメラの揺れ、小技の利いた小道具、どれもが主人公たちを際立たせるのに憎いまでの配慮。
話の進行とシンクロする時間帯の使い方などどこまでも計算しつくされていると感じる。
ここまで考えて作られていることに感謝すべきなのだろうが、一方でどこか乗れない自分がいたのも事実。
狙いが透けて見えるのと、達夫の背景描写がスローなのも一因か?
綾野剛と池脇千鶴の逃げない性描写も、抑えた芝居の火野正平も見事だが、『共喰い』にも出演していた
菅田将暉の軽さこそズシンとくる。
紫陽花の花は土壌次第で色が変わるというが、彼らのそれは変わったか…。
ログインしてコメントを確認・投稿する