浦安に住んでいたとき、文章サークルに入っていた。講師は元集英社副編集長のM先生。今も通信講座のような形で添削していただいている。
原稿をM先生に郵送するとき、手紙を添える。
近況報告が多いのだが、先月は「書く」という行為そのものについて、ぼくが考えていることを書いた。例えば、誰のために書くかということについて、以下のように書いた。
「私は誰かに求められて書いているわけではありません。私が書かなくても、世界中の誰ひとり困らないのです。それでも書くのは、他でもない、自分のためです」
そして、どうやら書くことは自分の生命線であるようだと続けた。
数日後、赤ペンで添削された原稿に、こういう文章が添えられていた。
「私は、書くのは『鎮魂』である、とつねづね考えています。自分の。
そして未来への『伝達』でもあるのではないでしょうか。
別の言い方をすれば『遺言』―」
何だかとても腑に落ちた。今までぼくは伝達としてしか考えてこなかった。自分が考えた“面白いこと”を、他人が読んでも面白いと感じるように伝達することに徹しようとしていた。書くときの心構えとして、それは間違いではないはずだ。だがM先生の言葉により、心構えがワンランクアップした気がした。
すぐにというわけにはいかないだろうが、このことが作品の完成度アップにつながることを期待して止まない。
タイトルはレイモンド・カーヴァー著『愛について語るときに我々の語ること』からパクりました。
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