石組みの門柱、覆いかぶさるように枝を張った木。もう暗くなっていたのだが、相当に大きな家であることだけはわかった。少し前に点いた外灯が、枝を影にしている。
尋ねたのは松本清張の家だった。それが出版界では有名な清張の「高井戸の家」であることをぼくは後から知った。
「そうか、あの家だったんだ」
清張の家は、その後、清張ドキュメントには必ずと言っていいほど紹介されていて、ぼくは度ごとに思い出した。
「やぁ、どうなのかねぇ今度のこれ」
和服に懐手をした松本清張が突然、ぼくの前に顔を出した。あまり明るくない部屋の奥から顔を出したのだ。
「あっ、松本清張だ」
ぼくはあっけにとられた。というのはぼくはカバン持ちがわりに連れてこられ、いまの今まで誰に会うのかも知らなかったのだ。その数時間前まで、芝の春闘共闘委員会の事務局で原稿作成の手伝いをしていて、そのまま連れてこられた。
説明するやつもいない。
「三木首相は条件付き付与で、という意向のようです」
ぼくは咄嗟に答えた。実際、事務局では、そういう見通しだった。手持ちのわずかな知識でなんとか答えた、というのがカバン持ちライターができるやっとやっとの答えだった。
「そうかい、そう、うまく行くのか」
松本清張は、「条件付き付与」という流れに満足しているようだった。
「あー、次の原稿も書くから言ってくれ」
「ありがとうございます。今日の原稿がゲラになったらまた伺います」
松本清張は、懐手の手で首筋をポリポリさせながら
「こりゃなあ、みんなガンバンないとなあー」
と言いながら奥に戻っていった。後のことだが、「三丁目の夕陽」の茶川竜之介先生そのままで、絵に描いたような執筆中の姿だった。
これは、1975年に起きた「スト件スト」と呼ばれる昭和の最後の大ストライキのはじまりにあった話。ぼくは「スト権ストをする側」春闘共闘委員会のライターとして原稿作りに参画していた。松本清張訪問は(後からわかったのだが)スト支援の原稿依頼と受け取りです。
その日、ぼくはなんの用意もなしに松本清張に会ったので、なんの質問もできなかった。あっけにとられているわけだから。
「あれも聞けばよかった、これも聞けばよかった」
とは思うものの、原稿の確認に再訪問をした時に、やっとひとつのことだけを聞いた。
「先生、お一人で書かれているのですか」
正確ではないが、確か
「他に誰がやるの」
というような不服そうな答えだった。またも、懐手だった。
清張は、工房をようしてたくさんの人で制作している。そう、思っている人も多かったと思う。
なにしろすごい仕事量だ。(すべての雑誌にレギュラーがあったとされている)
ぼくも、そう思っていた。しかし、目の前にいるのは茶川竜之介先生のようにひとり孤軍奮闘している作家の姿。
学校を出て間もなくて、ライターを目指しているぼくには気の遠くなるような、巨人の姿。その巨人が、懐手で目の前に立っている。
あれだけの作品を、一人で書き続ける。
「ラクな道などどこにもないんだなあ」
ため息をついて、
「さあ、これから、どう生きて行こうか」
と呆然とするしかない。
あまりの凄さ、帰りがけの門前の木はなおさらましてぼくに覆いかぶさるように揺れていた。
確かめたわけではないが、懐手の中の手は(5本も6本もあるわけはなく)、
ぼくと同じ2本だったと思う。
(後で知ったのだが、それぞれ出版社の担当が資料集めなどをしているが、書くのはやはり本人おひとりだった)
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