ノンフィクション作家の佐野眞一さんの豆腐のように厚い文庫本の「あとがき」を読んでいたら、佐野さんがノンフィクションを書く際の座右の銘としてきた言葉のひとつを紹介されていた。
それは、ヌーベル・バーグの映画理論家でありドキュメンタリー作家でもあった、アンドレ・バザンの言葉だった。
「私は捕虫網を使わない。素手で蝶々をつかまえる」
ぼくは、この言葉にこれまでに何度か出会っている。
いちばん古くは学生時代になるのだろうかね。当時は、この言葉のかっこよさばかりに惹かれて、内容はよく言う「わかったつもり」をしているのに過ぎなかった。言葉が、身について理解できるには何かこう身体的な経験の裏打ちがないと(昔からの言葉に沿えば)身に染みたものにならないんだ、という良い証拠でしょう。
佐野さんの「あとがき」を読んだ時、今度は違うバサッと切られた音がした。身体のどこかがね。
しかして、この綺麗な言葉、そしてするどい切れ味。
綺麗とするどいがひとつになっている、つまり日本刀の名刀のような一行で。ぼくは切られている。北斗の拳で言えば「お前は死んでいる」状態です。恥ずかしいなあ、死んでいるの知らなかった。
「兄貴ぃ、死んでる俺はわかるけど、抱いてる俺は誰だろう」落語で言えば「長短」です。はい、これも余分です。
真実を捉えようとする時、時代とか歴史とかはたまた先入観とか大掴みなところから入るのではなく、自分で調べたディティルを積み上げていきでき上がった画像から時代が浮かび上がってくるようにしよう、という内容ですね。
ノンフィクションはかくあるべしを(ほぼ60年前に)見事に言い当てている内容です。
では、綺麗さはどこから来るのでしょうか。モチーフの蝶々が良い、というのが普通ですかね。修辞的にはそこではない。即答できたらもう文の才能はほぼ確定です。
それは「使う」と「とらえる」の動詞の使い分け。安易にやれば「捕虫網を使わないで、素手を使う」と二重使用になるところを動詞の使い分けで文意をくっきり際立たせ、二つの言葉の意味の稜線がスーと伸びて、綺麗に見える一行になっています。その見え方は、言葉の富士山のような姿になっているのです。
えーと、今度はどうしてバサッと切られたのでしょうか。
今年からNHKで「バタフライ・エフェクト」というドキュメンタリー番組をやっています。「蝶々が羽根を動かすとかすかに空気は動き、そして知らぬ間に時代を動かしていく。その変化(エフェクト)を映像で追っていく」というのがテーマ。20世紀を切れ端のような映像までも追い求め、あくまで映像で再現していくという構成です。タイトル・バックでは蝶が舞い鱗粉が流れ出し、拡散していく。20世紀は鱗粉のかすかな飛沫の中にあると言っているようです。
これは、アンドレ・バザンだ。はたと思ったのです。
ぼくのように安易に単なる映画好き程度で行き過ぎるのではなく、「俺も、素手で蝶々をつかまえよう」と決心した人の存在を感じたのですね。で、ぼくは半ば失意し、半ば感動しているわけです。
つまり、ごくごく普通に人生のほのかな苦味などを味わいつつバザンへの文章を書いている、行き遅れた自分がいます。
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