(前置き)
ぼくは、前回の原稿「全身ホント人間」の中で、小説家・井上光晴を
「ある理由で、嫌いで仕方がない作家だった」
と書きました。書いた限りは放っておくわけにもいかないので、その元ネタをと思い古い原稿を探し出した。
その中身は、多少のジタバタはあっても、言わば世話話(せわばなし)で、大きな意味のあるものでもないのかもしれない。いま見ればね。まあ、それはいいか。
本題は、小説家・井上光晴をを貶すことではなく、色川武大との関わりを書いたもので。その判断はおまかせにしよう。それで十分だろう。ぼくとしては、尊敬する色川武大を思い出してもらうきっかけになればと、原稿を以前のままのカタチで掲載しています。
拳(コブシ)の音が聞こえそうなシーンからはじまります。
(本題の原稿を書いた時、井上光晴はまだ存命でした)
○
虹がかかっている。自由が丘から目黒通りに向かう道、なだらかな上り坂の頂点にあたる空に虹は浮いている。けれど道の両側には建物が迫っていて、ビルの壁で両側を切り落とされた虹はちっぽけな八つ切りの姿になっている。虹のかけらになっている。
「お前のやりたかった文学は、こんなものだったのか」
ある大衆文学の受賞記念パーティに二人の男が押しかけた。広い宴席の真ん中にいたその日の主人公である受賞者に罵声を浴びせ、あっという間に手を出した。
会場は、こんなことも世の中にはあるものだ、と達観した者たち(言わば、すれた人間)揃いなのか。さほどの騒ぎもなく事態は進む。
「お前の文学は、お前の文学は」とまことしやかな呪文が唱えられる度に拳が振り下ろされ。宴の主人公はそのままカーペットに座り込み、うなだれ、反復する打撃に身を任せていた。二人とは、井上光晴ともうひとりは夏堀正元らしい、殴るなどという大芝居はやはり井上光晴の役目であった。
殴られていたのは、色川武大だった。
矢崎泰久が「死ぬ前になんでも書いてやる」と公言しエッセイに書き飛ばした情景だ。
かつての東京には、虹のかけらが街のそこかしこに転がっていたのかもしれない。けれど、かけらはかけらだけの効能しかなくて。効力が切れると、見事に大きな不充足があふれ出し、その人の人生を怪しくしていく。
「カットバセーッ、 カットバセーッ」と神宮球場のスタンドで半ば踊るように身を捩らせ叫ぶ女。しかし焼跡の新宿ですれ違うように出会うと、女には何の狂気もなく、ただ日常の不満を抱えた女の姿でしかなかった。
戦場の功で金鵄勲章をもらって帰ってきた「善人ハム」は、町内の人の期待に答える才気は些かも持ち合わせず、ただただ腕を組み小首を傾げやり過ごし生きていく。
善でもなければ、悪でもない。人なりに形作られた不充足を抱える人間。
色川武大が人間解剖小説を書き始めたのは受賞パーティから間もなくだった。虹のかけらをこぼれ落しながら生きる怪しい人々を、立体人間に仕上げる仕事。色川武大が素晴らしいのは、その時、その人間の全体を描き出すことだ。それも、えぐるだの切り取るだの、荒事は一切なく見事にやさしくそのままを再現し、そして時代と空間のすべてが見通せている。
作家というのは自分の鋳型に人物を押し込めようとしてしまう過ちを起しがちなものだが、色川にはそんなやましい過剰な自意識は見当たらない。つまり、やさしさを感じるのは、その視点にある。本人の視点を生かしながら、全体が見えてくる小説。
偶然だろうか、意図したものだろうか。矢崎泰久が編集長を務める「話の特集」がその新しい小説を発表する舞台になった。一年以上の連載を経て、「怪しい来客簿」が生まれ、泉鏡花賞を受賞することになる。
矢崎泰久は同じ本の中で「あれを書かせたのは、あの二人だよ」と念押しをしている。
おい、ホントかい。
ぼくはと言えば「あの二人」が書かせたとはどうしても思いたくない。眠っているうちに、虹のかけらが色川のポケットに転がり込んで、そいつが指を動かし原稿を書かせたと本気で信じている。
どうしてか。それは、色川武大を読む度に小さな石のかけらのようなものがゆっくり腹の中を転がり落ち、そうして胃の下あたりにストンと音を立て落ちるからだ。その度に、ぼくは人の怪しさが少しわかった気がする。
ストン、ストン、ストン。
その音は、虹のかけらが色川武大に解読されて力を失いガラガラの玉になって出てくる音だと思っている。玉の色はその都度、違う。
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