「師匠、フランス座を辞めたいんです」
「だって…裸を見にきた客を笑わせてったってどうにもなんないすよ」
「表で、勝負させてください」
「おい、ずい分、笑わしてくれるじゃないか」
「いつからそんなに面白いこと言うようになったんだ」
「………師匠に教わりましたから」
この呼吸、この呼吸が江戸前なんだ。なーんだよー。
それはいい、それはいいが、この呼吸がほんとにわかる人間がこの世に、さーて、なん人いるだろうか。心配になるなあ。
(なにを偉そうに言いやがって。みんなわかるよ、わかるから、当たるんじゃないのか、バカヤロー)
と言われそうだ。
でもね、やっぱり違うんだなあ。それはねぇ、この呼吸に溶けているスピリッツ、魂を知っているかなんだ。
人は痩せ我慢で生きている。なにがなんたって痩せ我慢で生きている。そこんところが出ているかどうかなんだ。
たけしだって
「深見の師匠と別れたくない」
師匠だって
「たけしと別れたくない」
でもね、しょうがないことは起きてくる。いつかやって来る。その時、泣き言は言わない、相手には媚びない、という約束事の中で話が進む。そうすると、好き同士は、見事に痩せ我慢同士になる。
その絵姿がそうゆうことなんだ。いいねぇ。
つまりねぇ、江戸前とは痩せ我慢でできている。今回、言いたいのは、えーと、あのー、そのー、痩せ我慢でさあ。
○
粋ってなんだというときに、ひとこと「痩せ我慢」をあげる人がいる。あー、実にぼくは、「痩せ我慢」派です。
実に見えるものじゃない。見えるものから入りたがる人は多い。ナリ(姿形)じゃないんだよ。心積もりだからね。
幸福ってのはハタ目には、品の悪いものなんですよ。どうしても欲望が浮き立ちますからね。あからさま。
そのためには、抑えに抑えて幸福になる必要がある。謙虚の美学ってのは、ここから生まれている。
幸福がつかめなくて、こころがスッカッラカンとしよう。そのなにもない状態を平然と受け入れている。そいつの方がよほど美しいじゃないか、というのが「痩せ我慢」のあり方。
野球が、ここまで日本に定着したのは犠牲バントがあったからではないか、とぼくは思っている。
サクリファイス、犠牲。
「痩せ我慢」のわかりやすくて美しい姿は、送りバントに成功して下を向きながらベンチに戻る打者だと思う。ところが、いまや大喜びしながら戻る打者の方が多いのだろう。
つまり、あの呼吸がほんとにわかる人間が、この世にそう多くはいないというよい証拠になる。
○
ぼくが知っている浅草は、さびれていて東京のカスのようになっていた街だった。
とても夢が生まれる街なんて思いようもないし、平日は興行街に人通りさえ危なっかしい状態だった。
「捕鯨船」の親方も、つまりさびれの余波でデン助ともめ、劇団を離れたのだけど
「またそのうち戻るよ」
と言いながらも、ついに戻ることはできなかった。
○
もうほとんど種明かしはすんでいると思うが、頭のシーンは「浅草キッド」の別れのシーン。
深見千三郎とたけしはお互い泣き言は言わないし、媚びない。
「お前を好きだ」
と言う代わりに
「バカヤロー」
と言い、それ以外のほとんどのことは飲み込んでしまう。
(いつか言えるんだ、いつか言う時が来るんだ)
そう言って人は別れていくのだけど、それが言える幸運な人はそう多くはいない。
その言いそびれたちっぽけな悲劇は、結果として粋なものになる。
深見千三郎は、たけしに「小遣い」をもらったほぼ一月後に亡くなった。
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