戦争の親玉
(は2人以上だと、ボブ・ディラン はとうの昔に言っていた)
「戦争の親玉」って言葉、知ってるかい。聴いたことあるかい。
実はねぇ、戦争ってのは自然災害じゃなくて、人災なんだ。どうして人災かと言えば、悪い親玉がいて、そいつが無理くり引き起こすからさ。少しその話しをしようよ。
「戦争の親玉」ってのは1963年のボブ・ディランの歌、それがさあ、60年経って「いまのいま」を歌っているんだ。戦争ってのは人災だってね。ディランは、半世紀以上を串刺しにしている。お見事としか言いようがない。
日本ではじめて「ボブ・ディランにノーベル賞を」と言い出したと思っている(ほぼ間違いないと思う)ぼくとしては、やっぱりね、「戦争の親玉」という歌を放っては置けないんだ。
だってさあ、ボブ・ディランが叱っている、あいつら、いまんたら、いるじゃないか。
世の中に「骨太の…」という表現がある。
あの軽薄な小泉内閣で(竹中平蔵がペラペラと)使いはじめ、政治にちょくちょく出てくる言葉になったんだけど、恐れ多いからやめなさい。あんなもんは「戦争の親玉」に比べりゃあ小骨だね。あっち行け、と言いたいくらい。技巧のかけらもない体の芯から出る言葉。
「戦争の親玉」、これほど無骨のカタマリのような言葉に未だ出会ったことがない。この歌をはじめて聴いた時、
「こんな言葉が歌詞になるのか」
という感想をあげるシンガーが続出した。それはもうあきれかえるほどゴツゴツした「骨太さ」にあるわけで、けれど歌われてみれば
「ボブ・ディランが歌の詩の世界を広げてくれた」
という答えになる。結局、そうなった。
「戦争の親玉」の原詞は「masters of war」。「親玉」はmasters 、つまり複数で、「親玉たち」ということなんだ。
一人じゃない、二人以上の、「親玉たち」だよ。もうはじめっから見通しているんだ、すごいねぇ、どこまで行ってもディランはすごいじゃないか。
「戦争の親玉」って歌い出して、プーチン、トランプと二人をすっぽり入れ込んでも、なんの不都合もなく歌になる。複数だからね。
ぼくらの世代は、こういう時にアプレオリ(先見性)という言葉使ったのだけど、まさしくディランの詩はアプレオリ(先見性)のカタマリということになるのだろう。
さあ 戦争の親玉たちのお出ましかい
あんたたちは銃器を作り
あんたたちは人を殺す飛行機を作る
あんたたちは爆弾を作り
あんたたちは壁の後ろに隠れて
机の陰に隠れてる
さーて、プーチン、トランプは(ディランの詩のように)机の陰に隠れている男なのだろうか。
(きっと、当たっているよ)
プーチンはここんとこ、まるっきり姿を見せないし。
トランプときたら毎度ホワイトハウスのドア越しに話しをしている。
とてもじゃないが、隠れながら生きている老人に過ぎないのに、どうして世界中が黙って聴いていなきゃいけないのか。そのバカバカしさに若者が気づかない限り、世界は変わらないのだろうねぇ。
ディランが本当にすごいのは「空気の読まなさ」だと思う。
1991年、ディランがグラミー賞生涯功労賞を授賞した授賞式の中でのことだ。何年ぶりになるだろうか、「戦争の親玉」を会場で歌い出した。テレビでは湾岸戦争の映像が真っ盛りの時期だった。
「まさかーッ」
ほんとだった。
上にあげた「ものすごい詩」をがなり立てるように歌うディラン。本人は普通のように歌い、会場の半分はスースーした風が吹いていた、という記事を見たことがある。
言い方を変えるよ。
「若者が空気を読んでいるうちは、世の中変わらない」
と思えて仕方ない。ほんとくさいヤツは、ちょこまか空気を読んだりしないんだよ。身から出る言葉を大事にするんだ。そうしてね、その場に不都合な歌でも平気で歌っちゃう、その不器用さを「よし」としたいよね。
どうしてか「空気を読む」という言葉にはまるで花粉のように右傾化という実態が込められているじゃないかと思う。
その場を壊さないように。そいつは、保守という言葉の言い換えなんだろうねぇ。
場を守ろうとする空気には、とうてい若さを感じないだろう。
あんたたちが死のベッドに横たえられて
埋められるのを見届ける
そして その墓の上に立って
しっかり死んだのか確かめてやるよ
と、まあ、ここまで歌いこんで「戦争の親玉」は終わるのだけど、いま見れば唖然とするしかない。
「いいのー、こんな歌、歌っちゃって」
この詩のあまりの露骨さに「顔をしかめる」となるのだろう。
「科学とは、あまりに現実的なものである」
という言葉を思い出したくなるぐらい、丸出しの、裸の言葉にたちすくむしかない、わけだ。
ミスチルの桜井くんが出てきた時、
「あー、日本のボブ・ディランだ」
と思ったんだけど、ほとんどがラブソングで終わってしまったのは残念だったねぇ。
「ねぇ、クルミ」
クルミというのが未来という言葉の逆さまで、つまり過去だと教わった時、目がさめたような気がした。ボブ・ディランが出てきたときのような感触だった。
ぼくは、トランプが飛行場を歩くあの上等そうなコート姿を見ていると、思い出す。塹壕の中で、泥にまみれた兵士の姿だ。その制服は、ほぼ綿で、ビキューナの10倍の重さはするだろう。そして、運が悪ければ10倍の重さの制服が兵士の最後の衣装になる。
戦争というのは、大きな不公平のカタマリに過ぎない。悪いことにこの不公平が大好きな人種が、少なからずいる。少なからずとは、きわめて曖昧だが相当いることはまちがいない。
プーチン、トランプは、つまり不公平の頂点にいる「戦争の親玉たち」だ。
ログインしてコメントを確認・投稿する