西部の荒野を、西部の町を、風が吹く。ヒューン。風を追うように、球形の枯草が転がっていく。
球形の枯草は時には1メートルを越える大きさのものもあり、網目状のスカスカの風体で、枯れ枝の網目越しに風景が見える。そこから、球形の植物がもはやしがない風の一部に成り果てたことを教えてくれる。
タンブルウィード。風に転がるこの草がなかったら、西部劇は大分違うものになったかもしれない。
町外れでタンブルウィードが転がっていく。空舞台(からぶたい)を同ピンで、ガンマンが立っている。もうこれで一本の西部劇ができる。
映画「ラスト・ショー」、町で唯一の映画館の前、そこは吹き曝しで風が舞っていて、ごくわずかの言葉しか持たない少年が掃き掃除をしている。少年は、つまり掃き掃除しかできない少年なのだ。
砂漠から来る砂を払い、いつか来るタンブルウィードを払おうと、長い箒で掃き続けている。
少年は「レレレの少年」なのだ。
赤塚不二夫は、放浪の見届け人としての少年を発見し、「レレレのオジさん」を作り上げたのだ。ぼくは、そう確信している。随分前の話だけどね。
西部劇は根無草のガンマンとそれ以外の人、「シェーン」なら大地に根差した農夫一家、「駅馬車」ならアープとドクというように、人生の対比がドラマを生み出していく。
実を選ぶか、虚を選ぶか。ほとんどの男は、というか少年は、虚を選ぶ。ガンマンの道さ。ガンマンこと虚人の人生は、あまり長続きしそうにないのは目に見えている。
映画「ラスト・ショー」は、西部の町の映画館が閉館するまでのストーリーだ。最後の映画として『赤い川』が上映され、そして映画館は閉館する。スクリーンに光が当たる日はもうこない。画面からモンゴメリー・クリフトが無言でサヨナラを言っていた。
つまりカーボーイは、もう帰ってこないという意味だ。
閉館の翌朝、「レレレの少年」は、映画館の前でクルマに跳ねられる。
「あの子は死んだよ。町を通るクルマに跳ねられて」
街に長く生きる女性、エレナ・バーンステインの言葉だけで画面から告げられる。
少年は、トラックとタンブルウィードを見間違えたのか。
少年は、やにはにトラックの前に立ち、トラックは少年をタンブルウィードとみなしたのか。追ってみたところで、ほぼ半日ですべては跡形もなく消えてゆく。
放浪の見届け人は、行き場所を無くし身を投げたのか。半分くらいは、その妄想を捨てきれずにいる。
タンブルウィードの話から随分遠くまで歩いてきた。タンブルウィードは西部劇のライク・ア・ローリング・ストーンというやつなのさ。転がっていく、男の運命。根無草には定まる土地はない、けれど根無草には心意気があり、それが風に乗りブルースになっていく。
ボブ・ディランのようにタンブルウィードは、答えは風の中にあることを教えてくれる。
タンブルウィードは、かつて日本語訳では回転草という言葉が当てられていた。回転という言葉の無機質さこそ、男らしさの在処(ありか)だと年齢が上がるとわかるようになってくる。
えーと、ぼくの先生が書いたフレーズ。(他の人の名が出ることもあるが、先生です)
牧童の条件。1.体力頑健、2.意志強固、できれば孤児がよい。
男には立派な体があれば、大した才気はいらない。人によっては、がっかりするかもしれないが真実だろう。
もう一つ言えばだが、
青春はシェーンのように、街を出ると帰ってこない。
○
この文章は、ピーター・ボグダノビッチ監督の映画「ラスト・ショー」を下敷きにしています。
テキサスの小さな田舎町アナリーンで起きる青春劇。町はサビれ、唯一の映画館は閉館しようとしている。若者は街を離れ、それぞれの思い出を置き去りにしようとしている。
青春の幻影のように若者の前に立つ男、サム・ザ・ライオン。
愛が人生のすべてなのよ、と解き明かす、ロイス。
本当の愛を教えてくれた年上の女性を裏切る、ソニー。
町一番の美人ジェイシーに翻弄される、デュアン。
町の広い道路の真ん中で、無心にホウキで道を掃くビリー
否応なく時は進み映画館は閉鎖され、ビリーはトラックにはねられ死ぬ。
「何をしていたんだ」と言う老人に、ソニーは叫ぶ。
「道を掃いてたんだ。馬鹿野郎!」
『The Last Picture Show』という原題を、「ラスト・ショー」としたことへの評価は高い。
ログインしてコメントを確認・投稿する