「ハーモニカが欲しかったんだよー」
小沢昭一の「ハーモニカ・ブルース」が聴こえた。
ぼくはクルマに乗っていて、深夜でクルマは首都高の大井埠頭あたりを無音のように走っていた。そのクルマのラジオから流れてきた。
おじさんの歌声が、ラジオから聞こえてくる予定もなければ、予感もない。それは、そうだ。そもそもおじさんの声はラジオに似合うわけはないし。けれど、おじさんの声は『哀愁の街に霧が降るように』暗がりの首都高に流れ出し、それはとびきり切なそうで、ぼくの頭の中にはハーモニカが居座ってしまった。
40年前くらいかなあ。
ぼくはハーモニカに縁のある男じゃないし、すぐに思いつくのはボブ・ディランのブルース・ハーモニカくらいだ。それがまるで頭の中に蒲鉾板のように居座って、世界を鳴らしている。なんだ、これは。
ハーモニカというただの一語が連れてきた世界。つまりそれは詩の力、というものだと「いまとなれば」思う。
ハーモニカが欲しかったんだよ
どうしてかどうしても欲しかったんだ
ハーモニカが欲しかったんだよ
でもハーモニカなんて売ってなかったんだ
戦争は負けたんだ
かぼちゃばっかり喰っていたんだ
歌には、戦後の焼け跡の映像が詰め込まれていた。それは、ぼくがハーモニカという一語から引き起こされたイメージとはそう遠いものではなく、時間が経つとハーモニカを吹く少年のまわりに少しずつ少しずつ人が広がっていく気配まで感じさせた。けれど、その人たちはみんなオンボロだった。
リフレインが続いて、その後に「ハーモニカなんて売ってなかったんだ」、と歌ってから少し間が開く。わずかな間なのだが、そこからはこころが壊れるように歌い出す。
「戦争は負けたんだ」
ここで、すべての答えは明かされる。
日本という焼け跡で、あっさり消えてなくなった街という焼け跡で、半分うれしくて半分悲しい顔をした中学生の姿。
見えなかった人がにじむように姿を現し、通りすがりに声をかけてくる。
「昭ちゃん、生きてたんだね、よかったよかった」
「お父さんはどうしてる。近々伺うよ、そう言っといてよ」
「…はい、必ず伝えます。山田のおじさんが生きていて、よろしくって言っていたって」
ハーモニカが欲しかったんだよ
もう機関銃なんか欲しくなかったんだ
戦争は負けたんだ
誰も俺を待ってなかったんだ
「ヒデさん、出てきたの。今度はずーっとこっちにいるいいよ」
稼業の勤めから帰ってきた高倉健に、小沢昭一が演じる中華街の中国料理店主が、声をかける。映画「冬の華」のシーンだ。たどたどしい、あたたかさ。
懐かしい物に出会った時の小沢昭一の演技の素晴らしさは、「そーか、そういうものか」とやっと気がついた。
「愛というのは定着すると、愛着になる」。というような小理屈がすかさず思いつく。言葉にすると、少し(いや相当かな)白々しいがそういう物なのだろうと思う。
美しくて、たどたどしい愛着。その感触は「男が男に惚れる」ようななにかこう、純なものを感じさせる。
ハーモニカという一語だけで、これだけのことを呼び起こしてしまう。それが詩という言葉の力だと、ぼくがはっきり言えるようになったのは、この歌を聴いた頃だった。ぼくは、その頃やっと散文と詩の差を、素直に意識できるようになった。ずいぶん遅いとも言えるが、ぼくはなにより散文が好きだった。どっちが上かと言えば
「そいつは散文だ」
と大きな声で答えていたと思う。つまり偏っていた。だからどうっていうわけでもないが、一語がつくる世界の作り方をようやく習いはじめた頃だった。
そう言えば、あの頃の流行り歌、
「遅かったのかい」
を歌っていた佐川満男は昨年末亡くなっていた。
この詩は、谷川俊太郎の作で、小沢昭一が自分に合うように少しだけ補作をしている。作曲は小沢昭一で、こっちは逆で小沢の曲をきちんと山本直純が補作している。
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