吉原は夜っぴて栄えている。夜毎、生み出しているのは自由だが、毎夜のように拡大していく。
けれど朋誠堂喜三二は毎度、大門をくぐり夜な夜なノンキに歩き回るのだが、いつの間にかじわじわと締め付けがやってくる。
「なんか襟元、苦しいなあ」
この頃の吉原の様子を今の言葉でわかりやすくしてみよう。
「あなたは愁いを身につけて、うかれ街あたりで名をあげる」
中島みゆきの「わかれ歌」。その中の「うかれ街」ほど吉原気分を伝える言葉はない。さすが中島みゆき先生です。
「吉原ってなあに」
と聞かれたら、たちどころに「うかれ街」ですと答えればもう満点でしょう。
さてさて、溢れるほどの自由湯(じゆうとう)。さあ、こいつをみんなに振る舞って世の中を変えたいと思うのですが、これが一様に行かないのは歴史に示す通り。押したり押し返されたり。封建権力は、あっさり勇退しません。「勇退しない」というのを覚えておいてください。
マルクス先生は自由人(プチブル)が世の中の過半にならなければ、次の時代ははじまらないと言っています。世間がゴタゴタ、シコモコするのはこうゆう熟さない社会と権力の綱引きにあるわけです。
えーと、市川団十郎が歌舞伎の宗家とされるのは丸本物と呼ばれる「歌舞伎18番」を纏めたからとされています。実はもうひとつ隠れた話。歌舞伎役者は江戸期、エタ非人として浅草弾左衛門の支配下にありました。初代団十郎からはじまり訴え続け、(四世かな)団十郎の時にやっと、やっとです。非人の身から自由の身になります。
その意味でも市川団十郎は歌舞伎世界の大恩人で、喧嘩などしてなぐられたりしていてはいけません。
自由はこうして、一歩一歩拡大していくのです。反面、浅草弾左衛門はとても不満だったようです。
浅草弾左衛門の配下で非人の頭領は車善七とされ、山田洋治が寅さんの名前のモデルにしたとされています。
(古今亭志ん生の恩人で兵隊寅という、浅草のテキヤの名前との合作です)
さて、その道筋を辿れば、浅草から(江戸三座)猿楽町を通り吉原へ。元禄の「自由通り」は続いています。
ホイさッ、ホイさッ、ホイさッ。
「ほれー自由通りの風になれだ、酒手はずむよ、若い衆」
(実際は、吉原土手から仲ノ町通りへ。自由通りはぼくの創作)
大門からまっつぐのびている、蔦重がいつも立っているその通りが仲ノ町通りです。
で、ね、この頃そろそろ出てくるのが美人画。美人画と言えば歌麿「寛政の三美人」です。
中で小学校の頃から、(どうしてと言えば教科書に出ていました)一番気に入っているのは、高島屋おひさ。
「高シマーッ、高シマー、高島ー、あれぇ」
そうなんです、若い頃の高島礼子そっくりなんですよ。
おひさは、江戸両国薬研堀の煎餅屋、高島長兵衛の娘で15歳。15歳とは思えぬ大人姿、(当時はもう大人の扱いなんですかね)襟を抜いた姿などは
「きたね、きたね、高島ー礼子ーッ」
と大きく声をかけたくなるくらいです。
ちなみに歌麿は、蔦唐丸(つたのからまる)。現在行方不明、その大人なってからの画名となりますよ。
「おーい、おーい、おーい」
と毎度、大声で呼びつけることから名付けられた北斎の娘、葛飾応為が描いた「吉原格子先之図」などを思い浮かばせながら吉原を細見ください。
ついでに良くも悪くも田沼意次です。意次は運上金、冥加金で知られますが、これこそが農本主義から資本主義への移行です。その新しい価値が、自由を生み出す元金を作り出したのです。
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