「いき」な文章とは、なにか。(1)「いき」な文章は、夕暮れに走り出した。
もしもぼくが居なくなったら、汽車の汽笛が鳴るよ。
a 100 miles a 100 miles a 100 miles a 100 miles
遠くで汽笛が、聞こえるよ。
家の灯りも街の灯りも、遠く離れていくよ。
500 miles 500 miles 500 miles 500 miles
家を離れて five-hundred miles
着替えのシャツと少しの金と、それだけでいいのさ、ぼくは。
レールの続く遠いところまで、ぼくを乗せておくれ、夜汽車よ。
すぐにわかりますね、歌は「500 miles」。いくつかの訳詞があります。中でも忌野清志郎の訳詞は名訳とされていますが、この訳詞は、中川イサトのもの。あまり世の中には出ていません。
ぼくは、聴いてすぐ、あーこれは「いき」な文章だなと聞き惚れてしまった。
ぼくは「いき」な文章を求めて生きてきた。それが仕事だった。今にしてもいい仕事だったと思う。仕事での文章修行の中、ばくは「いき」を目指す流派に属していて、それでいてなかなかのものだったと思っている。ごくろうさま。
「いき」な文章というのは、その頃(70年代です)、まだまだ世の中に定着していなかった。ぼくはその中でスピード感のあるイメージの力を目指していた気がする。素晴らしい速度でこころに入り込み去っていく文章を夢見ていた。
さあ、今になって見ると、そうだね、この「500 miles」のように止まりそうな速度があってもいいんじゃないかと思えてくる。
さういうぼくが、あーなんて「いき」な文章だなと思ったこの詩。「いき」を説明するのは「いき」じゃない。それを言われると、身も蓋のないのだが、少しばかり説明します。
まずこの詩が「いき」なのは、下手だからです。
とぼしい言語が作り出すフレーズ。形容詞も飾り言葉もほとんどない、その簡素な詩は情景を本当の姿にします。本当は、結果として嘘のない「品の良さ」を発散します。
この下手が生み出した「品の良さ」がこの詩のたたずまいになります。
長いので飽きのこないように、余分な話を少し。
この曲の原詩はヘディ・ウエストという人の曲で、hoboと呼ばれる鉄道浮浪者の生活を歌っています。日本人は、リー・マービン主演の「北国の帝王」という映画ではじめてhoboの存在を知ることになります。(マニアの映画なので、見た人はそう多くいません)
hoboを知らない日本人は、この歌のテーマになにをおいただろうか。
この歌は、好きな人と別れる歌です。
「そんなこと、どこにも書いてないよ」
はい、書いていません。けれど、別れの歌です。ここで半分くらいの人は「いき」に近づけなくなります。見えないものはない、という理科系の方ですね。今だけ、少しだけ人生観をゆるめてください。
ここに書かれているのはかすかな恋情です。そしてかすかな恋情というのが「いき」の美しさの本質です。
「秘すれば花」という言葉を思い出してください。それは花なのです。
さうして、それを不必要に露出しない意志を「意地・張り」として、表出します。
「かすかな恋情」と「露出しない意志」の美しい対立。
ゆっくり降りてくる夕暮れのように「あきらめ」がやってきます。「あきらめ」の色味を流すように夕暮れがやってます。
このモノトーンであって、モノトーンでない色味が大事な「いき」の世界です。
雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の 雨がふる
北原白秋「城ヶ島の雨」です。この「利休鼠」の雨は単にグレーではない、かすかな色味を持って舞い降ります。かすかな色気です。同じように、
暮れて行く街、夕暮れのかすかな光、かすかな色感が聞くひとに淡い「あきらめ」を連想させます。気がつくと、「いき」はスローモーションにように風景の中に滑り出していきます。
(資料)
1.この詩の「いき」の構造です。
○たち姿 「品の良さ」
○美しい対立 「かすかな恋情」⇆「露出しない意志」
○光と空気 「あきらめ」の色味
2.「いき」と「粋」の違い。
九鬼周造は「いき」と「粋」をはっきり区別しています。
「粋」は外形的なものによった姿と捉えているようです。
それだけに「粋」はやもすると派手、野暮を抱え込む可能性を秘めています。
3.中川イサトの弾き語り
小室等の音楽夜話(後半部)
https://www.youtube.com/watch?v=mWL_25o0_Yo
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