子犬はドブにハマってしまった。ドブの底にはヘドロが溜まり、汚水が流れていた。汚水には生活のすべての汚れが溶け込んでいた。
「臭いなあ、ひでぇなぁ、なんとかしなきゃ」
子犬は必死でもがきなんとかドブから抜け出し、道端に小さな足で立ちブルルッと体を振るわせた。臭いしぶきがあたり一面に飛んだ。
ジャニーズの子供たちは「汚れた子犬」だった。
○
山下諭一という性文学者が、暴行の意味付けを実にうまく説明している。
商家の店先、小僧が汚れ水をバケツに持って表に出る。パッと道路に撒くと振袖の娘さんにかかってしまった。
「あ、あ、大変だ」
通りがかりの人は声を上げ、小僧は慌てるがもうどうにもならない。
山下諭一はこう説明する。間違ったのは小僧、でもねぇ汚れたのは振袖の娘さん。もうぬぐいようもないよね。振袖の娘さんは汚れてしまった。
暴行の心理とは、こういうものさ。
○
キムタクに聞こう。あの日のドブの水は臭かったかい。飲み込んだりしていないかい。
中居に聞こう。ニヤリと顔をあげたジャニーさんというドブは君の何を飲み込んだのかい。
あの日に戻らないと説明できないことがたくさんある。
ジャニーズの「汚れた子犬」たちはブルル、ブルルッって体を振るわせるのだけれどどうしても汚れが取れないんだ。他人はともかく本人には匂いはしっかり残っていて、腕を鼻に吸い付けると「あの日」が帰ってくる。
○
忘れている、忘れているのだが、時たま帰ってくる。仄暗い時間に一人でいると、あのドブの汚れと匂いが帰ってくる。
いくらシャワーを浴びても取れない。(自分だけかもしれない)と必死に嗅ぐのだが答えはいつも同じ
「自分には、はっきりわかる」
という答えだ。
○
この早々とこうむった試練に「汚れた子犬」はどう立ち向かうのか。それは二つの方法がよくとられる。
ひとつは、自分を汚した相手を讃(たた)えるのだ。ほめて、ほめて、自分の経験が「そう悪いものではなかった」と自分の中で操作する。
「仕方ないよ、仕方ないさ」と呟きながらね。
どうやって。
さぁ、それは簡単さ。
「Show must go on」
というほめ言葉を放つのさ。それで自分の汚れは薄められる。そう信じ込む。するとねぇ、そいつはたびごとに「自慰」のように心地よくキムタクの体の芯を走って、空中にあの体液がほとばしってっているはずだ。
「これでいい、これでいいんだ」とこころの中で叫んでいる。
さあ、もうひとつ、これは穏便にはすまないよ。自分の汚れを転化しようと他人に試みようとすることだ。
親から暴力を受けた子供が自分の子に暴力を振るうようにね。それも汚れをこすり付けるように繰り返しやるだろう。老人がウンチを壁になすりつける動作に近いのかもしれない。性的満足感が暴力と一体になってしまっていて「それをしないと」満足ができないんだ。相手を汚さないと「気持ちよくなれない」性の心理。
ラジオ番組であざ笑うのも、典型的症例(としか言いようがない)だろう。相手を汚すことがよろこびにすり替わっている。暴力との性的倒錯。
少々、経験則で済まないが、目を見ればわかる。殺人的なあの目。たびごとに殺すように「性」を仕掛けているはずだ。
これはね、いくつも噂のあった、だが続かない中居の過去の履歴を寸分違わず物語っているだろう。そしてね、きっと何年か後に出るだろう、多くの別れの原因が暴力だったことが。
○
「汚れた子犬」は、かわいそうさ。
けれどね「汚れた子犬」は汚れを振り撒くのさブルル、ブルルッってさ。
どうしたらいい、どうしたらいいのさ。
それはね「やめることさ」、他に方法はない。綺麗さっぱり忘れることさ。
その証拠に、ジャニーズとの距離感に応じて後遺症は垂れ流されている。キムタクと中居のほとんどの面倒な事象は後遺症と思ってほぼ間違いない。
「やめること」、それをもう少し論理化すれば、「あの日」から遠去かるということだ。
「貧乏しても、自分は一人で生きていく」と思いさえすれば、あの匂いは薄まっていく。そうして「汚れた子犬」は、やっと人に戻ることができるのさ。
怖がることはないよ。ほんとに貧乏したっていいじゃないか。(実はこれが一番ベストなアドバイスだと思っている)
ログインしてコメントを確認・投稿する