○2009年08月31日の日記再掲載
みなさーん、また自民党が沈没するかもしれない季節が来ましたよ。そこで、でーす。前回、民主党がどうしてあのような推移を迎えたのか。ま、そんなことを思い出しながら、当時の文を掲載します。いくらか参考になるかと思います。
文の最後に「天皇陛下より国民は20年ほど遅れて獲得した」という答えを書いたのだけど、二度目はどうなるか。
今度は、もっとうまくやれるはずさ。二度目だもん。
○
政治は、政事(まつりごと)とはどう違うか。政治に宗教的色彩は必要ないし、ましてや政治は亜宗教ではない、ということです。
「当たり前じゃないか」(などというかも知れませんが、いえいえ、これなかなか根強いもので、その解説です)
「ここまで民主党に大勝させ、反面、不安になっているわたしたち、そして国民の姿が目に浮かびます」
ってなニュース・キャスターのコメントが続出していた8月30日ですね。
ま、新しいことには不安はつきまとう、でも、これには日本人特有のある心理が働いている、フームと思いましたね。
それは政治を政事、つまり「まつりごと」と捉える古代からの日本文化の構造に繋がっていると思えたからです。
日本は古代から祭政一致の国で、政事(まつりごと)は祭祀の一部として、扱われてきたのですね。その司には、ま、天皇陛下がいるわけです。
その延長に
「寄らしむべし、知らしむべからず」
という政治の特権化や、世襲問題も文化論として出現する。
話しを広げれば、リーダーになにかとカリスマ性を要求するのも、このやや宗教味を帯びた文化性に関わっていると思います。
「みんな普通の人なんだから」
それでいいじゃないかと思うのだけどね。
さあーて、と、この近代国家にはめずらしいの祭政一致が生き残る「国のかたち」を引きずることで、われら日本人は、政治にどこか知らず知らずの内に「まつりごと」という宗教性を付託していたのかもしれないね。
憲法には、政治の宗教からの独立をはっきり書いてあるのだけど、日本の歴史ではじめてのことなもんで、みんな馴れてこないんだなあ、高々、半世紀じゃ。長かったからねぇ、伝統社会が。
政治、政権を変えると
「国の、文化の、大元を変えてしまうことになるのでは」
「日本じゃなくなっちゃうんじゃないか」
などという恐怖がこころのどこかに隠れるようについてまわっていたのですね。
あのー、隠してもだめですよ、その証拠にまさに弓形(ゆみなり)になっても不思議に政権は変わらなかったんだから。
これ、お稲荷さんの前でオシッコできないようなもんだったんだよね。なにしろ祭祀をけがすことになるからね。チンチン、ハレちゃう、だったんですよ。
「オイら、平気でするよ」
えー、えー、そういうあなたは、ある意味、近代的な人です。
で、まあ、延々半世紀以上、自民党政治は続いてきたわけだ。そうして国民の選択によって自民党政治は終わった。
不安がることはないよ。だめなら変えればいい。
これが近代的考え方なんですね。憲法に沿っています。
政治というのは合理的選択の集積であるべきで、ま、いまからそいつがはじまると考えたらいいんでしょうね。
大きく言えば日本は、ここではじめて「おしつけ」ではない、自力による制度的戦後を獲得したのかもしれない、と思うのです。いやあ、まあ、不意にやってきましたね。戦後民主主義の元祖、丸山真夫もビックリの状況だね。
そう言えば天皇陛下はいち早く「憲法を遵守します」と即位の礼で宣言していたね。国民は20年ほど遅れたということになるのです。
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