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2024年02月12日09:16

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流星のひと。39 1995年の「乱れ髪」。

 藤圭子は「乱れ髪」を歌った。1995年の目立たない地方局のことだった。
 まるでカラオケ帰りの主婦のようなニット姿でマイクを握り前に進み、カメラの前に立った。左手を日本舞踊のように(上下に)泳がせ、カラダを手の動きに合わせ緩やかにしならせると曲ははじまった。わずか5秒のフリで、世界は降りてきた。

「髪の乱れに〜」
 強い地声を可能な限り抑え歌い出すと、場の軸は藤圭子に引き寄せられていた。人のいない砂浜を風が打つのように声が迫る。かすかにファルセットをいれ、地声に戻る。
「手をやれば〜」
 冬の海はくっきりとして存在し、さすらう女は目の前にいた。やや目を落とし、顔を上げる。一瞬の、遠い目、遠い空。鮮烈な「赤い蹴出し」の言葉。

 藤圭子が美空ひばりの歌を歌うことはそう多くない。その理由は、技と地声という歌唱法の両極にいるからだ。藤圭子は、いつだって技を使わずに歌いたいのだ。地の声で歌うことで実人生を再現したいのだ。
「乱れ髪」という曲は言わば技巧のかたまりで、藤圭子が目指してきた歌唱とは正反対の歌かもしれない。でも、歌うのだ。

 ヒカルの歌を聴いた圭子は、ある決意を持って日本に帰ってきていた(と、ぼくは思っている)。
「歌を愛そうよ」
「子供を愛するように、歌を愛そうよ」
 という歌い方、それが技巧を離れた技巧を作り出していた。藤圭子が生涯嫌っていた「媚び」のない、技の歌のはじまりだった。
 この日のために稽古をし尽くした、その徒労の果ての無欲の技。
 この時、45歳だった。炎天の新潟を歩きはじめて35年経っていた。いまや別段スターでも何でもない自分には、こうして歌うことでしか身を立つ瀬がないのだ。
 旅芸人のように、藤圭子は歌った。

 間奏の時、スタジオは粛然となっていた。セットのカウンターに並んでいた錦野旦は、自然と背筋を伸ばし座り直した。
(この歌唱は「乾杯トークソング」という地方局の番組の中で歌われ収録されたものだ)
「ひとりぼっちに、しないでおくれ」
 歌い終えると小首を傾げるように頭を下げる。スタジオはゆっくりゆっくりいつもの風景に戻っていく。

 この時の「乱れ髪」を藤圭子の最高の歌唱だという人は多い。いや歌謡界の宝とさえ言い切る人もいる。
 けれどこの地方局の歌唱は、地方局の番組としては当然のことようにある時までまったく人に知られず存在していた。それが、TV画面から「誰かが録った」素材がアップされることで、またたくまに人に知られることになっていった。

 さらにこの素材から、もうひとつの驚きが生まれることになる。
 17人の歌手が歌う「乱れ髪」の歌い比べという動画がある。実際には「17人+本人美空ひばり」という構成なのだが、ここに「誰かが録った」藤圭子の歌唱が組み込まれた。
 そこから想像もつかないことが起きていた。

 この動画の「さて、あなたはどの歌唱が良いと思いますか」を語るコメントを集計したのです。すると、
 美空ひばり 22
 藤圭子   16
 森昌子    5
 その他   1~3

 という評価になっていた。
「え、ほんとなの」、あまりのことにぼくは目を疑う。
 美空ひばりと藤圭子が別格で、あとは「参加することに意義がある」という評価、まさに勝ち負けのついたオリンピック状態だったのだ。
 複数の歌手名をあげる「複数回答」を集計に組み込むと、さらに藤圭子は美空ひばりを抜いていたとも言える。
(歌を数字で競うのは妥当とは思えないが、ひとつの参考にはなるのでしょう)
 この数字に限って言えば、藤圭子は戦後最高の歌手とさえ言えてしまう。

「あたしは演歌の歌手なんだ」
というニューヨークでの藤圭子の自覚がもたらした歌唱なのだと思う。

 けれど世間の多くは眠たくて、美しくて悲しい45歳の歌手の円熟を知ろうとはしない。しかし、それは無理なんだ。つまり、これこそが芸能というものが持つ宿命、「薄情さ」なのだろう。
 薄情という情に晒されながら、流れる情の歌、演歌の世界なのだ。

 藤圭子は、この薄情な世界での身の挺し方をやっと覚えたのかもしれない。
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