藤圭子はミニを走らせる、あの「道」の映画のように、あの純なジェルソミーナのように田舎道を走りながら稼ぐ。東京に戻るとレコードを出し続けた。
レコード会社は転々と変っていった。あきれるほど変わっている。石坂まさをの、当時の人づての言葉を借りれば
「どうして純ちゃんは小さなレコード会社を転々としていくんだ」
となる。宇多田のせいとするのはカンタンなことだがそればかりではないのだろう。
「人からもらった歌を歌っていても仕方ないよ」
この頃、よく口に出していた言葉だ。歌の技術はピークに達している。この口元に時代の言葉がのれば、ほら、あの時のように大きな躍動感が生まれて、世の中の人の大部分はあたしと一緒に歩き出す。そう思っていたのかもしれない。だから転々としながらも歌い続けた。口には出さないけど、意地だったのかもしれない。
その思い切りがはっきりわかるのはポリドールから出した、この曲だった。
あたしのカラダを あたしが売って
どこが悪いと 言うあの子
「東京迷路」(86年)の歌い出しだ。凄まじい迫力だったが(幸福の実態としての)子供を持つ女が歌ったところで、歌の中に孤独な都会の悲劇は発生しない。それどころか、意地悪どもに言わせれば
「こいつは、茶番だ」
という悪口になってしまう。あの「命預けます」のところでこの歌が出たらどうなったか、ぼくは思うばかりだ。
「紅白歌手にこの歌はかわいそう」という声もあったのだろう。でも、圭子は本気だった。それは、見ればわかるというものだ。
藤圭子の黒い瞳は極度にうるみ、はじめてつけたピンクの大きなリボンがいつになく揺れていた。
けれど、バットが空を切る音が、スカッと聴こえてきた。
なにか藤圭子の中で時代が暗転した気がする。紅白を落選したときのように、コクンとなにかが落ちたような様変わり。そして、こころの揺れがやってくる。
藤圭子がこころの変調を見せたのは
「ヒカルが5歳の時だ」と宇多田は雑誌などに話している。
「お兄ちゃん、母さんは目が見えていたんだって」
兄、藤三郎のところに突然、憑かれたように電話が来る。そして
「母親がギャラを着服していた」とも訴える。
母の目が実際には見えていたことを告げられ、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っている、とされている。だがここには二つの不明点がある。
ひとつは誰が圭子に告げたのか、ということだ。
お金を無心に来た父親が告げたとずっとされていたのだが、実は宇多田を経由して告げられているというのが兄と伯母の共通の記憶で、どうやらこちらが本当なのだろう。
もうひとつは(これが不思議なところで)どうしてそれが精神を不安定にさせる大問題になるのか、ということだ。
母親の目が悪いのはもうわかっていること。全盲ではないことはデビュー時の「パチンコを楽しむ母娘」というビデオを見るだけでも明らかなことだ。そしてヒカルを生む時に遺伝性の欠陥を持つことも理解していたはずだ。
「驚きたがっている、騒がせたがっている」というのが印象だ。「ギャラを着服」にしたところで、母親がお金をどうするというのだ。まさかホストクラブにつぎ込んだとでもいうのか。母と娘の(孫も含む)暮らしを守るために母がやっと蓄えているというのが真実だろう。
つまり、いまあるこのバランスをを壊したいという力が働いている、としか言い様がない。それは、誰が、なんのために仕掛けたものなのかは、ほぼ想像通りだろう。
藤圭子は、あれほど愛した母親を「鬼」とまで攻撃し、母親は壊れかけた娘のその様子に困り果て千葉の閉鎖入院施設に入れる。藤圭子は、「あたしを引き取りにきて」と宇多田に連絡を入れる。宇多田は引き取りに来るのだが、(兄の言によれば)当時は離婚していて引き取りはできず、後日、書類を偽造して夫婦に戻し引き取って行く。
これが藤が言う「あの人が地獄から助け出した」と言うことなのか。この地獄が特定できないことがとても残念なのだが、ことは急激に進んでいく。
藤は、娘にR&Bのリズムを体から染み込ませ、ネイティブな英語を身につけさせようと、一家でニューヨークに移住しようと考えたのだ。それは、英語を美しく話すと言う藤の子供の頃からの夢をかなえるもので、同時に日本で生きることに苦労してきた自分と同じつらさを味わわせたくないという気持ちもあったのだろう。
ニューヨークの移住のために費用を作り出す必要が生まれる。
藤は母親が住む綾瀬の家を、
「私が買ってあげたものなのに私の好きなようにして何が悪いの。ニューヨークで暮らすのはヒカルのためだから」
と言って、勝手に売ってしまったとされている。
伯母、幸子の言葉を繋げるとそれはだいぶ深刻な姿になる。宇多田は
「(ニューヨークに)借金があるからマンションを売れ!その金は圭子の金だろ!」
と迫るようになったんです。 姉は、毎日、照實さんの怒声を浴びていました。 姉は、「おっかない、このままでは殺される」とおびえていて、一生住むつもりでいたマンションを売却し、お金を照實さんに渡してしまった。 そして、姉は粗末なアパートに引っ越し、照實さんとの関係は、それっきり途絶えました。
目の悪い人は、オドシには健常者とは比較にならない恐怖感を抱くとされています。もし 伯母、幸子の話が本当だとすれば相当に罪が深い。
「ヒカル、明日からニューヨークよ」
スーパーに買い物に行くように、親子3人はニューヨークに旅立った。
ログインしてコメントを確認・投稿する