藤圭子は、そのまま待ち人の来ないニューヨークにいた。なぜいたのか。もしかしたら遅れてくることもあるかと思ったのかもしれないね。
「やあ、待たせたね」
わびるような表情、恥ずかしげだけどあたたかみのある声。その声が聴こえた瞬間ほど、人は幸福を感じる時はないからね。それが小さな私鉄の駅前でも、大きな空港の到着口でもね。
どうもその幸福に「あたしは縁がなさそうだ」と思いはじめた藤圭子は、この街でひとりで英語と音楽の勉強をしていこう思ったらしい。
けれど今度は少しだけ様子が違うんだ。
ハワイは、友達が事前にハワイ大学に手続きをしてくれていた。バークレーの英語学校は、ハワイ大学の紹介だった。けれどこのニューヨークでは、まるで手ぶらなんだ。
ぼくは言ったよね、
「セントラルパークを走り回る小リスのように、この街で自由に生きていくのはまだまだ無理だろう」
ってね。とりあえず役に立ちそうなのは、コーディネータを自称している宇多田照實というよく正体のわからない男だけ。
(よく正体のわからないというのは理由があって、ここまで自称するプロフィール、どれひとつとっても確証がないのだ)
ベトナム戦争に従軍したが、脱走してきたという。え、え、えッ、世界中で脱走兵は銃殺だよ。でなけりゃ軍隊は成立しないし。なにを言い出すのだろうか。相手が甘いと思うと嘘は宙を飛ぶのか。
「宗教系の大学を出たのでほとんどの教義が理解できるんです」
どの大学か明かしたことはない。
ぼくは、かなり前から宇多田照實という名前を知っていた。名前だけ、だけどね。というのはニューヨークの男性誌「プレイボーイ」の日本版が75年に集英社から発刊されていた。その人気雑誌の日本サイドの企画として、立木義浩が撮る「アメリカ縦断写真」がスタートした。男性ストリップに嬌声をあげる女性。ドル札を男性モデルのパンツに差し込む姿が評判になった写真で、
「あの男ストリップね」
と思い出す人は多いと思う。(写真集は後で「マイアメリカ」というタイトルになった)
「ニューヨークでさ、宇多田というコーディネータがいるから使ってやってよ。ディスコとか詳しいよ」
立木さんのチーフが、繋ぎをつけたというのかな声をかけてきた。このニューヨークでのディスコのロケを担当したのが、宇多田照實という男だった。
「頼むよ」
ということなのだがこの時期、空前の西海岸ブームでニューヨーク・ロケなんてまるでなかった。もしかしたらニューヨークでコーディネータ業なんてとても成立していなかったのではないだろうか。
ナベショーこと渡辺正二郎氏の言葉を借りれば、チマチマ説明せず素性は簡単になる。
「あいつはニューヨークでプー太郎をしてたんだ。親父は植木屋で、ニューヨークに行ったところでどうにもならなくて一文無しのプー太郎さ」
次に名前を聞いたのは、ニューヨークから帰ってきたカメラマンからだ。
「宇多田ってね、坂田さんと同じでアベドンのスタジオに入りたいんだけどね。空きがなくて、順番待ちで、コーディネータをやっているのさ。だから写真のことよく知っているよ」
ぼくはもうここで、ウームと唸ってしまった。相手に合わせて巧妙に話を作る人、危ない人、の気配がしてきたからだ。
もう十分に?マークが出ているよね。でも、まあ、もう少し続けます。
ぼくがニューヨーク・ロケに行ったのはさらに数年後、ニューヨークにコーディネート会社が2社ほどできた頃だった。かつて留学中の女優のI.Kの恋人だったロケマネのチーフにぼくは尋ねた。
「こういう人、知っている」
「知らないな、知っていたら今度も頼んでるよ。日本人のガイドというなら、ディスコに日本人を案内しているのいたなあ。いまはいないけど。その人かなあ」
ほぼ「その人」で間違いないのだけど、その頃ニューヨークにはいなかった。日本に来ていた頃かもしれない。
藤圭子は、ひとりぼっちの秋から、学校学習から社会学習にスイッチを切りはじめていた。ライブハウスやディスコで生の音楽に接することでジカに学ぶ。そうして、「学ぶ」から「作る」に半身を乗りだそうとしていた。実際のやり方は、まだこれからだけどね。
日本を出る時、八代亜紀に
「純ちゃん、これからどうすんの」
「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」
と答えていた。その約束にいよいよ取り組みたくなったのだろう。
学校と違うのは、いささかリスクも発生する。場所はなにしろニューヨーク、大丈夫なのだろうか。ここで圭子の4番打者気質が飛び出す。
「あたしが出て、思い切りバットを振れば未来は開ける」
そうだよね、そうだといいんだ。けれどすぐ事故は発生する。
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