◯2006年11月28日の日記再掲載
大阪を立ち退いて、四百両
使い果たして二分、残り〜ぃ
「恋飛脚大和往来」を大津絵に直したその語り出しなのだが、いまはもう歌うものは誰もいない。(倒れる前の柳家紫朝だけだった)
梅川と忠兵衛。
冬の寒空、手を取り合う2人。
どうせ死ぬしかないものなら、大和、新口村の別れたきりの「ととさん」にひと目、会ってから、という忠兵衛ただひとつの願い。
やがて降る雪、追っ手の足音。
なかなか進まぬ、梅川のたどたどしい歩き。
近松の心中物は、たくさんあるのだが、ぼくはこの出し物だけが特別に好きです。見る度に泣きたくなる。
悲しさとないまぜになった夢。一旦切れば死罪の封印を、切ってしまった男のかわいさ。そこには、他の近松物にはない粋のこころが封じ込められています。
蜷川の「近松心中物語」を見るという方法もあるのだが、もっと見て欲しいのが、内田吐夢の「浪花の恋の物語」。
ほぼ歌舞伎と同じ進行を内田吐夢が、舞台と実写を交互にしたカットのつなぎで作り上げている。(そのつなぎで)映像が、芝居、現実、芝居、現実と行き交うことで、いま、見ている人のすぐそばで同じ悲劇が起きているかもしれないと追い込んでいく。
江戸時代にこの芝居を見た人と同じ気持ちにさせたい、いまこの生きた時間の中にすっぽりと悲劇を再生させてみたい。いつでもどんなに時代は変わっても愛の悲劇は続くのだから、という内田吐夢の渾身の演出です。
役者は、中村錦之助と有馬稲子。(この映画がきっかけで一緒になりました)
そしてラストがすばらしくて、実はこわい。
梅川と忠兵衛はあわれ追っ手に捕らえられ、(やがて死罪の)縄に着く。スルスルスルっと音がするように幕が走り、柝が鳴る。
すべてを見終えたカメラは舞台からグングン引くと、客席の後ろまでやってくる。
そこには作者、近松(片岡知恵蔵)が立っている。カメラの目が作者の目だったことが、ここでようやくわかります。
突き通すような深いピント、知恵蔵の目は作者の“非情な目”となって冷酷に2人を見つめていたことがわかります。美しく流れる愛の筋立てに溺れることなく、2人を見つめる目。芝居は終わり、幕は降りる。つまり、終わってしまえば一時の夢、この悲劇も絵空事となってしまうかもしれないのだ。
「これで、よかったのか」
悔恨ともうめきともつかない、知恵蔵のふくみ声。事実を知り、芝居に移し替えた作者の声は、深く重い。
(さあ、見物は何を承知してくれたのか)
知恵蔵の近松は重い声をその場に置いていくように、後ろを向いて、何も言うことなくその場を去っていく。帰る観客にまぎれるように出ていき、やがて見えなくなる。
カメラは追わずに小屋の中に残ります。
空白となった、芝居小屋の長い間。
愛の悲劇と唱(とな)えてしまえばもうそれだけですべて許されてしまう映画の観客たちに、ぐさっと“非情な目”を刺すことで内田吐夢は、もう一度、真顔にさせてせまるのです。
「ほんとにいいですか。あなたは覚悟がありますか」
観客の後ろ姿に、ハネの太鼓が響きます。
トン、トン、トン、トン。
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