mixiユーザー(id:5708627)

2023年06月07日04:40

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五木とぼくの「風に吹かれて」の頃。

「海峡物語」という本の事を調べていた。おぼろげな記憶だが主人公の苗字が立原だったか確かめたかったからだ。検索ですぐに本は見つかり、中に立原という名前を見つけ出すことができた。
「なんとかぼくの記憶も真っ当だな」
という安堵を得て、少しページを見回すと「風に吹かれて」が並べられていた。
「半世紀を経て読まれ続ける本」と腰巻の文が表紙の前で立番をしているように添えられていた。

「半世紀か、確かにそうだなあ」腰巻の何とも言えぬ正確さに妙な感心をしながら本を見ると、電子版がついている。はじめてやってみる。記憶の中の文章がモニターの中に浮かび上がってくる。

 文字が軽い、「やはり本は活版だなあ」などが思いつく。しかしぼくらにしたところで、文庫本は活版からオフセットに移行している時代だった。電子版の文字の軽さもやがてなれ、普通になっていくのだろうか。
 活版で印刷された文字は、書き手の意志を相当な重みで伝えていたような気がする。紙にグィと文字を押し込む工程が、文字に少なからず重さを与えていたのだと思っているのだが、その事を自覚できる人はもうほとんどいないのか。

 五木寛之「風に吹かれて」、ページを繰ると本のあの世界が再現される。どうやら電子版は本を映画のように仕上げる効果があるようだ。重さは薄れたが、映像化がはじまった、のか。

 五木にさほど思い入れはなかったのだけど、最初の北千住の話でまたすっかり引き込まれてしまう。
 新聞配達の五木が北千住の赤線(娼家)で寝込むのだが、起こしそびれた女性が帰ろうと急ぐ五木の自転車の空気を入れてくれる。手押しの空気入れ、グィグィとポンプを押し込む女性の生々しさに圧倒された、ぼくのあの日がフツフツと帰ってくる。

 ぼくらはこういうものを書きたかったのだ。こういうものというのは、日常の延長にあってまるで等身大で、小説のようないわば大時代なところもなく、「風に吹かれて」いるようなその日をたどる文章を書きたかったのだと思い出した。
 もう一度、なんてことのない文章を書いてみたらどうだろうか。自分に聞いてみる。

 当時、この手の文は雑文と呼ばれていた。エッセイという言葉はあったのだが、書き手たちは自虐を込めて雑文と必ず呼んでいた。なんというぞんざいな呼称だろうか。しかし「雑文が売れなければ、飯(メシ)を食えない」と売文業こと書き手たちがことあるごとに歎いていたのはよく覚えている。

 半世紀を経て読まれ続けた「風に吹かれて」は、雑文をエッセイに仕立て直した張本人ではないのだろうか。雑文がかなりの部数売れ、ある種のスター性を持ち出し、結果、エッセイに成り上がったのだ。
 五木が、出版の世界に知らぬ間に起こした雪崩だったのかもしれない。、

 中盤の当時から評判の高い篇、この本の人気の核となった「光ったスカートの娘」はどうやらいまも同じように元気で中目黒界隈のリーダーでいるらしい。朝の体操を率先してやっている姿をテレビで見かけた。つまり中尾ミエは、ずーと元気で少しばかり迷惑なところがあるも、光ったスカートからみせた姿はほぼそのままで、ここでも五木の眼力はあたっていたらしい。

 本というのも50年生き存(ながら)えると、いろいろな表情を見せるものだ。

 それにしても「藤圭子は天才だった」五木はラジオで繰り返し言うのだが、ぼくは自死よりなぜ引退したかが気になっていた、そのことを機会があれば。
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