「あー、心地いい響きだなあ」。
顔を上げてテレビを見ると番組は「金スマ」で、歌い手は大黒摩季だった。あの男らしい、女がいた。
どちらにしろ、そう縁の深いものではないのだけど、響きのよさはこれはちょっとしたもので、ひと息、聴けばすぐにそれは伝わるし。
「これは、聴いてみるか」という気に充分させるものだった。元へ、聴かせてください。
らーらー、らららー
今日も明日もあなたに 会いたい
詞が生まれた時代なのかなあ、話し言葉をそのまま歌に乗せるという作法がはじまった頃だからかなあ。
歌詞に濃厚な生(ナマ)な感触があって、それがずーと気になって仕方がなかった。
「生(ナマ)だなあ」とぼくらは思うのだけど、生(ナマ)がシャウトされる
「それが、いいのよ、ぶつけるようで」と同世代はいうわけで、これはなかなか埋まらない。
年月が経つのはナゼ こんなに早いのだろう
あっという間にもう こんな年齢だし
ま、そう思っていたのだけれど、耳から入る歌のこころはすっかり変わっていた。「響き」が彼女の歌の中心になっていた。すっかり変わっていたんだ。やわらかで、やさしい歌のこころにね。
ひとつひとつの言葉は、(以前とは違い)フワッとした空気に包まれて、充分な響きを含んだところで、歌い出されます。その声の粒は、客席の上を舞いシャボン玉のように人に当たると小さく「パチン」、ほーら、心地よいやさしさが響きます。
らーらー、らららー
何かやらなきゃ誰にも 会えない
「響き」とは心地よさを作るもの。(例にあげれば)お経も「響き」の音楽の代表。声明というお経のコーラスは、人が天国の響きの世界に抱かれたさまを再現したものです。「響き」は、心地よく人を抱くのです。
「ぶつける」ことから「抱く」に変わった唱法。大黒摩季の、人をやさしさに抱く唱法と呼ぶと良いのかなあ。
病気があったりとか、年齢もあるしとか、ザードとの約束とか、さまざま語られていたのだけれど、でもそれは、年齢が生み出すある種のまろやかさ。そして、それはなかなかいいものだし。新しい、うまさ。そう言うべきだね。
これから私 何をどうして 生きていけばいいんだろう
ず〜と ず〜と ず〜と 一緒にいようね
もしかしたらキーを半音下げたかもしれない(ぼくには、はっきりつかめないけど)。テンポは、これは判らぬように下げている。
サヨナラ、ジャンヌ・ダルク。
もういいじゃないか大黒摩季の、ジャンヌ・ダルクの時代は終わりにしよう。
やさしきマザーになる時代のはじまりさ。武器を捨て、鎧を捨て。何もない手のひらをひろげながら、歌うのです。大丈夫、これならジャンヌが被った火炙りはないのでしょう。ながく愛される、あなたです。
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