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2026年10月01日11:31

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「虚空の三角ベース」 ――石原慎太郎とコープ・オリンピアの闇、そして欲望の戦後性(前編)

「虚空の三角ベース」
――石原慎太郎とコープ・オリンピアの闇、そして欲望の戦後性(前編)


 1:「おでんの気持ち」、あるいは一瞬の歪み

「あそこでさ、会っちゃってさ……」

 全盛期の『TVタックル』のスタジオには、日本のメディアが決して触れてはならない「毒ガス」が満ちていた。
 ビートたけしという男は、その毒ガスを最もシニカルな笑いに変えて撒き散らす天才だった。ある日、たけしは同席していた都知事・石原慎太郎に向かって、あえて主語を曖昧にしたまま、ふわりと投げつけた。

 その瞬間、いつもなら傲然と他者を論破するカリスマの顔が、一瞬だけひどく歪んだ。それは、己のえぐられたくない最深部の領域に刃が届いた時の、野生動物のような防衛本能の現れだった。
 たけしが仕掛けたのは、世間で言われる政治の理念などではない。もっと泥臭い、剥き出しの生身の不条理――いわば「おでんの気持ち」とでも呼ぶべき、被害者の痛みや密室の闇の気配だった。その普段着の仕掛けに、画面の向こう側の何人が気付いただろうか。

 石原は即座にそれを「男のロマンや美学」「国家の大局」という大文字の言葉の盾で遮絶しようとした。だが、その過剰な拒絶こそが、彼が死ぬまで隠し通そうとした自分の「偽物性」を雄弁に物語っていた。

「おでんの気持ち」とは、たけしが権田原(ごんだわら)でのバイク事故後、手術の処置でボルト固定のために顔面を金属の串で左右に突き抜かれていた時に、自らの顔を「おでんの具」になぞらえて笑い飛ばした言葉だ。
 死線の底で掴み取ったこの剥き出しの生身の不条理を、不意に突きつけられ、大文字の言葉でしか生を語れない石原は激しく揺れた。


 2:1945年・宿命の境界線(和歌山と湘南の原体験)

 夜空を性器のような爆撃機が飛び交い、夜と死と性が同時にやってきた。

 1945年7月9日の夜、和歌山市の上空はB29が投下した無数の焼夷弾によって、どす黒く、血のような赤に染まっていた。まだ13歳の少年だった喜多川擴(ひろむ)――のちのジャニー喜多川は、逃げ惑う群衆と炎のうねりの中で、ただ圧倒的な恐怖に震えていた。
 その極限の混沌の中で、ジャニーは近所のおじさんに烈しく抱きすくめられた。男の力強い腕の感触、肌の熱さ、そして次の瞬間、そのおじさんに手を引かれて飛び出した防空壕へ直撃弾が落ち、一瞬前まで中にいた人々が肉片となって消え去った。

 少年がこの夜に浴びたのは、単なる戦争の恐怖ではない。生と死、そして男の肉体の肉薄という「性」の衝動が、爆撃の地獄の中で同時に脳髄へと焼き付けられたかのようだった。昨日まで笑っていた人間が一瞬で消え去る不条理。大人たちが作った「国家」という大義名分の虚しさ。この夜、おじさんの腕の中で九死に一生を得た体験こそが、のちに彼が大人を完全に拒絶し、少年たちを囲う「密室の防空壕(合宿所)」を作り上げる狂気の原点となったのではないか。

 同じ1945年の夏、そこから遠く離れた湘南の海にも、もう一つの生新しいエゴの原点が立ち上がっていた。
 旧制湘南中学の1年生だった石原慎太郎は、逗子の麦畑を歩いている最中、超低空で飛来した米軍の戦闘機(グラマン)から狙い撃ちにされる。至近距離に突き刺さる機銃掃射の重低音。土煙。それは、アメリカという圧倒的な「男性的暴力」によって、自分の命が虫ケラのように弄ばれた瞬間だった。
 だが、石原はこの恐怖と同時に、奇妙な「快感」を覚えていた。死の瀬戸際で自らの肉体を自覚する全能感。そして8月15日の敗戦の日、それまで遊泳禁止だった夏の海が突然自分たちのものとして解放されたとき、石原の胸に去来したのは、国家の敗北への哀惜ではなく、「これからは自分のやりたいように生きていく」という、狂おしいまでの自己愛(エゴ)の覚醒だった。

 和歌山の炎の中で、死と性の恐怖に抱きすくめられ、自己を秘匿する術を選んだ喜多川。
 湘南の海で、アメリカの暴力に射すくめられ、剥き出しのエゴを全開にすることを選んだ石原。
 この二人の少年が戦後、四谷のバー「スポット」というひとつの座標で交錯することなど、この時はまだ、焼け跡の誰も想像することはできない。少しだけ、空白は続く。


 3:影の兵士と太陽の教祖(1950年代後半〜1960年代初頭)

 ジャニーは美しい少年だった。
 少年は戦争を経ることで変貌する。影の中に生きる少年になっていた。

 戦前のロサンゼルスの高野山真言宗寺院の境内で、日米2つの母国を持ち、誰もが「とてもいい子だった」と振り返る美しい少年・喜多川擴。しかし、和歌山の大空襲で死と性を同時に浴び、その後に勃発した朝鮮戦争の狂気の中を生き抜いたとき、かつての美しい少年の面影は完全に書き換えられていた。

 彼はアメリカ陸軍の犯罪捜査局(CID)や米軍顧問団の通訳官として、冷徹な情報戦の世界に身を置いていたとされる。そこで叩き込まれたのは、身元の秘匿、秘密保持、私生活のコントロールといったインテリジェンス(諜報)の技術である。帰国した少年は、もはや光の当たる場所には戻らなかった。キャップを深くかぶり、サングラスの奥に眼光を潜め、自らは「影の中に生きる少年」のまま、他者の人生をコントロールする側へと回った。彼が身につけた「人目を避ける態度」は、戦後日本の文化統制の海を泳ぎ切るための、完璧な兵士の擬態であった。

 その「影の中に生きる少年」が闇を深めていた1956年、日本の表舞台では、正反対の「光と過剰な肉体の怪物」が産声を上げていた。その青年は、

 湘南のサッカー場から太い腿を引っ下げ、1時間半の道のりで東京にやってきた。
 一橋大学に在学中だった石原慎太郎が、小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、時代の寵児となった瞬間である。

 横須賀線に揺られ、あふれるばかりの膨大な体力と大きすぎるエゴを引っ提げて東京へ攻め込んできたこの若者は、障子を突き破るセンセーショナルな描写で、既成のモラルやストイシズムを嘲笑った。
「やりたいことをやるだけだ」
と言い放つ無軌道な若者たち――太陽族の教祖となった石原は、自らの下半身の欲望と傲慢な知性を隠しようともせず、フラッシュを浴びて肥大化していった。

 光を浴びて熱狂を生み出す太陽の教祖・石原慎太郎と、自らを消して暗闇に潜む影の兵士・ジャニー喜多川。
 この交わるはずのない二人の怪物を引き寄せ、一つの生命体として結合させたのが、メリー喜多川が四谷三丁目の円通寺坂の角に開いたバー「スポット」だった。
 1960年前後、東京新聞の記者であり、学習院の貴公子でもあった藤島泰輔がこの「スポット」のドアを開け、のちに妻となるメリーと深い情誼(じょうぎ)を結ぶ。そして、藤島と文字通り義兄弟のような親交を結んでいた石原慎太郎もまた、この狭いカウンターへと吸い寄せられていった。

 酒の匂いと煙が充満する「スポット」の密室で、石原慎太郎と喜多川姉弟は邂逅を果たす。
 石原は、メリーの持つ圧倒的な情報統制力と冷徹さに魅了され、ジャニーの背後にあるアメリカの影を直感したとされる。一方の喜多川姉弟は、石原という「スター政治家の卵」という最強の表の盾を手に入れた。
 四谷のカウンターの片隅で、日本の表の権力と、裏の統制システムが、互いの「秘密と欲望」の領域を侵さないという、一種の不可侵の共生関係(パトロン関係)を結んだ。この暗黙の血盟こそが、のちに原宿の巨大な要塞へと引き継がれる、戦後日本最大のタブーの土台となったのである。


 4:コープ・オリンピア、治外法権の要塞(1965年〜1980年代)

 1964年、東京オリンピックの熱狂に沸く原宿の街を、ハリウッドの伝説的大スター、ケーリー・グラントが歩いていた。映画『歩け走るな!』の日本ロケの最中だった。
 
 ぼくは、そのケーリー・グラントのすぐ隣を、並んで歩いた。

 表参道のケヤキ並木を抜ける風の冷たさ、映画のカメラが捉える最先端の東京の熱気、そして彼らの背景に、翌年の完成を控えて巨大なコンクリートの壁を露わにしていた日本初の億ション、コープ・オリンピア。スクリーンの中、ぼくの目の前で並んで歩いたケーリー・グラントの姿は、西欧化した「クリーンな都市・東京」の象徴そのものだった。
 だが、ハリウッドのカメラが去り、実際にその巨大なゲートが開いたとき、そこに吸い込まれていったのは、クリーンとは真逆の、戦後日本のドロドロとした欲望と権力の闇だった。ぼくが隣で感じたあの日差しと華やかさのすぐ裏側に、戦後最大の「治外法権の密室」が作られようとしていたのだ。

 コープ・オリンピアの厚いコンクリートの壁の中。
 そこに拠点を構えたのが、四谷のバー「スポット」で情誼を通じた、藤島泰輔とメリー喜多川、そしてジャニー喜多川のジャニーズ事務所だった。
 表参道を下る右側に続くコープ・オリンピアの、その背中側がベランダになっている。ぼくはあの下り坂を歩くたび、あのはるか高いコンクリートの凹凸を見上げては、何度、その奥を覗き見たい思いにかられただろう。

 あそこには、何があるのか。その答えは、不意にやってきた。

「見たことがあるだろう、ベランダでキャップをかぶったジャニーの姿」
 ワシントンハイツから連れてきた少年たちを囲い、独自の「セルの統制(秘密保持)」で合宿所を仕切るジャニー。一説には、そのベランダと壁一枚を隔てたかのような至近の空間に、石原慎太郎の「隠れ家」があったとも言われている。
 湘南のサッカー場から太い腿を引っ下げて東京へ攻め込んできた太陽の教祖は、このコープ・オリンピアの密室に愛人を住まわせ、密かに子供をもうけていた。

 少年への加害というジャニーの闇と、愛人と隠し子という石原の闇――当時の社会通念では一発で破滅を意味する致命的な「下半身のスキャンダル」が、同じ屋根の下、壁一枚を隔てた隣り合わせの空間で、あたかも奇妙に共鳴し合っているかのような、不気味な符合を見せていた。
 彼らは互いの秘密を知り尽くし、だからこそ「互いの領域を絶対に侵さない」という、暗黙の相互保証(不可侵条約)の関係がそこにあったかのように、沈黙は守られ続けた。そして、その欲望の連鎖を経済的に、かつ右翼・保守の言論人脈で支えていたのが、メリーの夫である藤島泰輔だった。

 1975年、石原慎太郎率いるタカ派グループ「青嵐会」が、京都市長選挙に親友の藤島泰輔を独自候補として擁立しようと画策する。政治史に残るこの公式な結託の裏には、コープ・オリンピア周辺で重ねられた「欲望の相互保証」の影がちらついていた。フジテレビの鹿内一族ら保守メディアの重鎮とも太いパイプを持っていた藤島・メリーの防壁は、結果として石原の私生活を世間の目からハイド(隠匿)する盾としても機能することになる。
 ぼくがケーリー・グラントと並んで歩いた原宿の街。あの華やかなオリンピックの記憶のすぐ隣で、日本の表の政治と、裏の芸能の闇は、コープ・オリンピアという要塞の奥深くへ、深く、深く、吸い込まれていったのである。

(後編に続く)

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