人生を変える日本映画��
「乾いた花」と山茶花究。
◯ヌーベルバーグとヤクザが続きました。そこで今度は、ヌーベルバーグとヤクザがひとつになったもの「乾いた花」です。
ヌーベルバーグは「死刑台のエレベーター」を代表作としてはじまり「勝手にしゃがれ」でピークを迎えます。では最高のヌーベルバーグ映画はと言えば、これはむずかしい。映像としてのヌーベルバーグ感覚はと少し視点を狭めると、なんと日本映画が浮かんできます。それもかなりすんなり出てくるでしょう。
中平康「狂った果実」です。意外と知られていないので、書いておきます。
トリュフォーが発見し、フランスに持ち帰ると
「これが、俺たちが撮りたかった映画だ」
と若い監督たちが絶賛したとされています。
ヌーベルバーグは「狂った果実」として、ではもう一つの柱、フィルム・ノワールという感覚を代表する映画はどれでしょうか。やはりぼくは日本映画をあげたい。篠田正弘「乾いた花」です。フランス映画を超えている。
黒味のビッシリ詰まった映像(黒味が詰まっているというのは映画撮影の永遠のテーマのひとつ)、小さく予定調和しないストーリー、漂う虚無と孤独。当時、昼の名画座の客席はガラガラで冷えすぎたクーラーの風が流れていました。これが、「乾いた花」の世界そのまま。冷えすぎたクーラーの風がスクリーンの上を流れます。
カラカラ、カラカラ、ファンの音も、もはや映画の一部です。
大桟橋、シルク・ホテルの俯瞰。建物からは、ボイラーの熱気があふれています。
刑期を終えた村木(池部良)が横浜に帰ってきます。すぐ賭場に向かいかつての女に出会う、けれどなにか高揚のない平坦さに冷めています。
ヤクザとして山を超えた、自分の年齢のせいなのか。わからない。わからないが時間は過ぎてゆく。ある日、不思議な女、冴子(加賀まりこ)に出会う。冴子が賭場に無制限な刺激を求めている姿に、自分を見つけたように感じます。
「あの女は、何者だい」
「わかリません、どこかいいとこのお嬢さんという噂です」
加賀まりこが壮絶な美しさ見せます。この加賀まりこの美しさだけでも、映画史に残ると言って良いでしょう。次作に当たるのかな「月曜日のユカ」が加賀まりこが最も美しいとされるのですが、ぼくはこの「乾いた花」を推します。「月曜日のユカ」はジーン・セバーグの(監督の要求でしょうが)マネが多いからです。
冴子と賭場を回る村木。勝ち負けは、一瞬の生死。そして性の隠喩。(究極の博打と色川武大先生が定義する)手本引きのリアルな描写。
スタスタスタ、手のひらでめくるフダの音、
「はい、コマどうぞ、コマどうぞ」中盆の低い掛け声。
もう二度とこれほどの博打の描写はできないと(俊藤浩滋が言った)されています。
葉(よう・藤木孝)という異様な中国人が現れ、すべてが壊れかけはじめます。
ぼくは、葉(よう)の登場はストーリーを小さくすると思うのですが、ここまで広がったストーリーを収束させるには必要なのかなと妥協しながら見ていました。
賭場巡りの最中、関西との抗争がはじまります。巡り合わせだろうか、この争いの片付けを引き受けることになった村木(池部良)。
親分(宮口精二)が孫をあやしながら
「ぐぃと、抉(えぐ)ってこい」と声をかけます。
東京言葉の名人とされた宮口精二の「抉(えぐ)ってこい」は、日常語の中に突然に飛び込んだスゴミを一瞬のうちに表出させます。二度と見ることのできないシーンです。
さて、ここからが主題です。
関西側の親方との掛合いに、村木は馬車道の喫茶店に向かいます。
関西の親方は今井(山茶花究、さざんか きゅう)。リアルな人間像を演じさせたらこれ以上の人はないという役者。ギョロリとした目、がっしりしとした顎。村木の突然出す凶器に、山茶花のアクの強い顔が歪みます。真っ暗な店内を無音で転がる二人。階段まで追い詰め、二度三度やがて形がつきます。
「非情」というこの映画の主題が暗い階段下から浮かび上がります。虚無の先には、もはや言葉さえない「非情」しかないのでしょう。無音で転がるシーンが、何もない暗い宇宙を浮遊する「非情」の空間へと泳ぎ出します。
そこでは「本物を見せてやるから」と喫茶店の客席に座らせていた冴子(加賀まりこ)でさえ、もはや単に飾りでしかないことを教えます。
男は無常に生き、非情に死んでいく。この後、語り継げられるこの映画のラストがあるのだが、それもいわば飾りで、二人のこの暗討シーンの意味にまさるものはどこにもない。これが、主題だからです。
ところで山茶花究は色紙を頼まれると必ず「非情」と揮毫したそうです。これを、篠田正弘(監督)は知っていたのではないか。そんな気がします。
ー了ー
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