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2026年09月16日05:35

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 【決定版】  恋歌・高市早苗 〜 あの人への歌を、歌って終わりたかった 〜

 【決定版】
 恋歌・高市早苗
〜 あの人への歌を、歌って終わりたかった 〜

 この原稿は、総裁選の出馬した際の「高市演説」について書いた原稿の再掲載です。一部修正はしていますが、大筋は変わりません。では、なぜ再掲載するのか。
 高市さんは、ぼくの予想に反して初めての「女性総理」になりました。ぼくは、この時の原稿の中で、高市さんの行きすぎた演劇性を指摘しています。数多の踊り手、井上八千代、竹原はんの手は、指は、常に宙を指し「しなり」を増します。だが、身振り手振りのする間にこぼれる高市演劇の鱗粉は、もはや「嘘の粒子」に過ぎないことに気付いてしまった。
 過度の演劇性は、やはり「嘘」しか生まないのだ。

 ぼくらは、この危うさに何らかの手を打つべきではないか。というのが再掲載の理由です。

            ○ 

 高市早苗は、なぜ鹿の話をはじめたのか。
 ぼくは言葉に込められた、声にならないこころを探ることを自分の業としている。
 人はまだまだ、言葉を自由に駆使できなくて、たくさんの積み残したこころを置き去りにしながら話し、書きながら、生きていく。
 ノンバーバルな言葉。言葉にならないこころ。
 ぼくは、蝶を追うように空中に浮遊したこころを掴みに出る。時々少しだけ成功する。

 なぜあの場で鹿なのか。上り詰めた最後の舞台。息を詰めて見守るその中で、一瞬まよった表情が生まれるが、思い切ったように
「奈良公園といえば鹿です」
とはじまる。
「………」
 意表をつかれた聴く側に、空白が生まれる。
 ケーン、ケーン、ケーン。
「あの数分の演劇が高市を敗北させた」
という答えが来週の今頃は主題になっているだろう。
 では高市早苗はなぜ和歌を詠んだのか。和歌を歌う本当の意味はなんだったのか。ほとんどの人は当を得ない推論を広げるだろう。まず無理だと思う。それは、起点を探ることができないからで、それに高市のこころはあまりに意外なところに飛び地しているからだ。

 その歌は、恋歌だからだ。
「高円(たかまど)の 秋野の上の 朝霧に 妻呼ぶ雄鹿(をじか) 出で立つらむか」
「下手ですねぇ」
 と高市は言う。きっとそうは思っていないだろう。下手だけれど、下手だけれど、真っ正直さは感じられた。それにしてもなぜこの歌にそこまで真剣なのだろう。「?」が続く。
 大伴家持のこの歌に、かつて万葉の女流歌人・笠郎女が、決して届かぬ権力の中枢にいる最愛の男へ向けて、狂おしい一方通行の恋情を託し続けた孤独な姿が重なる。
「この歌の中にわたしの人生を入れ込むことはできぬものか」
 だが、その情念が現実の男に叶えられることはなかった。

「笠郎女は、わたしなのか」
 高市は、この疑問に終止符を打つために、最後の場所で歌った。多分にリスクに富んだものだけど、とうていその衝動を抑えることができなかったのだ。
 後の唐突な外国人問題のつなぎには、本当の意図など示されてはいないし、流れが論理性を欠くことになることも百も承知だったのだろう。
 トリックを明かそう。
 外国人問題は、あの場で和歌を詠むためのつなぎ、つまり順序が逆だったのだ。歌にこそ本意があり、歌うために無理に取り繕った外国人問題はマヤカシでしかない。
 これで、ほぼ全ての説明がつくだろう。
 どうしてこんな手の込んだことをしたのか。これには唯一の答えが隠されている。たった1文字です。
「わたしは、奈良の女です」

 高市が言い放ったこの1行に込められた「女」という1文字だけが真実を伝え、しかも明らかに政治の文脈をハズレている。つまり政治家としてではなく「女として」この歌を歌っているという特別な意図を完成させるには、この一語を少々の無理は承知ながらも入れ込むしかなかったのだ。文脈の前後、どこにも「奈良の女」が出てくる必然はない。
 それもすべて承知のことだろう。
 それだけに明らかな証拠として、そこに、ある。
 高市は、歴史的な恋歌を残したかったのだ。
 してはいけないことだが、どうしても、どうしてもあの場で恋歌を歌いたかった。(すぐに信じる人はいないだろう。だがそうなのだ)

 ついには歌えば「勝てる」という心境にまで立ち至っていたのではないだろうか。あの一瞬だけ、もはや統合されていない精神は、日常の美学などはないもののようにあっさり飛び越え逸走してしまっていた。
 彼女の現実(うつつ)は、地を走るのをやめ、ペガサスのように空を飛んだ。
「…妻呼ぶ雄鹿(をじか) 出で立つらむか」
 高市は「奈良の女」として、自分をここまで引き上げてくれ、今はもう朝霧の彼方に消えてしまったあの牡鹿(安倍晋三)への恋情を歌い上げることで、自分の歴史にひとつの区切りを打ちたかったのだろう。
(できれば10年後に気づいてもらえるくらいの恋歌ならちょうどいい)
 そう思っていたに違いない。

「それなら負けても仕方ない」
「いや、歌えば勝てる。奇跡を呼ぶかもしれない」
と信じたかった、のだろう。

 けれど美しい私情は、すぐに現実の大地へと舞い落とされた。だが、高市はさほど悲しくもないだろう。恋歌は、もう歌い終わったあとなのだから。仕事は終えた。すぐさま政治家らしく現実に立ち戻る。
 恋歌が人の借り歌で、自分の歌ではないことは間違いない。
「奈良の女」は高市早苗で、牡鹿は安倍晋三です。
 そして、もうひとつ、「奈良の女」のカラダは、その奥深くにある精神の形とともに、とうに壊れてしまっているような気がしてならない。現実との接点を失い、自ら作った仮面の妄想の中に生きる姿。あの日、あの舞台に、なぜか冷たい悲しみの風が流れていたのはそのせいだ。彼女の崩壊の輪郭の向こうから、まもなく次の、取り返しのつかない悲歌が聞こえてきそうな気がした。

 ー了ー
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