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2026年08月23日15:34

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小説・藤圭子 50 流言の向こう側

小説・藤圭子 50 流言の向こう側


 ぼくが話したいことは、もう、そう多くはない。

 ここまで来ると、なんとも解決不能な悲しさなどが生まれて困っている。はじめの頃からぼくなりに次々と謎解きをしながら前に進んできたのだが、ほぼ糸口ぐらいはたどり着いているだろうか。ひとつひとつ反芻をしてみる。

 なかで気がかりなことは「こころの病い」のことだ。ぼくは(26回「流星と流言の悲劇」)の中で空白の子供時代を書いている。ここに藤圭子のこころの闇があるのだと秘密証しを試みているのだが、なかなか本気で読んでもらえなかった気がする。それはそうなのだろう。予備知識もなく、あまりに非日常だし、おまけにぼくは素人なわけだし、本気になれないのは当然のことだ。

 少しだけ、戻ってみよう。

 インタビューがはじまると、沢木孝太郎にはすぐ困り果てることが起きる。藤圭子に子供時代のことを聞くのだけれど
「おぼえていない」
「わからない」
というばかりでほとんど取材にならないのだ。
 藤圭子の子供時代は、普通の人の想像をはるかに超えるもので、それを開けてはいけない箱に押し込むことで、どうにかバランスをとって生きてきた。理解しがたいかもしれないが、その時代は藤圭子のこころの中では「ないもの」になっているのだ。

 なかなか信じられないと思う、だが、これは本当のことだろう。

 精神科医の想定によれば、この時期、藤圭子は母・澄子と母娘の絆を作ることができなかったし、それは生きる基底を作ることができなかったということだ、と指摘している。愛してくれる人の見あたらない世界は、幼児にとって恐れしかない世界という姿になる。
 未確定のことも多いのだが、藤圭子は、母に「捨てられていた」時期があるのではという話さえある。
 旅先でご難(主に金銭上のトラブル)にあって、藤圭子を旅先に預けて離れたのだが取って返すことができずそのまま年単位の長さになってしまったというのだ。

 さて、その中で(想定された)ある診断を上げてみよう。

「藤は、愛着関係というものを実母との間で築くことができなかった、その恐怖が根底にあると思います。藤が幼少期から抱えてしまった、この根源的な欠損に彼女の運命は支配されています。この欠損の癒し、回復は、もはや現実の母親との関係からは得ることはできません。だから、母と絶縁しても、藤が回復することはなかったのです。(絶縁ということ自体、母親との関係に執着しているからです)」
「彼女の症状の本質は、複合性(あるいは複雑性)心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)です。その治療が行われていなかったため、基底欠損とともに生き続けた彼女は、人間恐怖から人間不信になり、人嫌いになって、その生涯を自身の手で閉じたのでしょう」。

 この診断は、言わばぼくの指摘を大分トレースしているようだ。

 藤圭子は母親との愛着を、動物がカラダをなすりつけるように再生させたがるのだが、それはほんの少ししか回復しない。父親を追い出し、一卵性母娘と言われた生活を送ってもそれは同じだった。
 藤圭子は「甘え」を求めていた。

 そこへ、宇多田氏からの囁きが、あってはいけない暴発を呼び込んでしまった。
「圭子、お母さんは君を騙しているんだよ」
をはじめ重なる妄言は見事に藤圭子のうちに眠る母を巡る恐怖を誘い出し、こころの船を闇の世界に押し出した。

 自死後、宇多田氏はきわめて巧みに違う判断を藤圭子の精神に当てはめます。まず、
「彼女は、類いまれな気まぐれさでしたが、こちらとしては十分対応できるものと考えていました」
と説明しながらも、ヒカルには
「母は統合失調症と診断されるも…」
「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました」
と語らせている。

 一連の発言で、専門的治療をつかせなかったことを言外に弁明し、それでいて「自死」は病いによるもので関与できるものではない、という相反する二重の弁明をまるで「渡りゼリフ」のように二人の声でつなぎ合わせ、都合の良い論理として再構成させている。
 それは、耳を澄ませば「自分たちは無謬であること」を歌うツラネでしかないのです。
 この一見きわめて小綺麗でよく整頓されたツラネには、到底、肉声の切れ端も感じません。タワーマンションのモデルルームの実態のないインテリアのような空虚な言葉は、ただカランと音を立て床に転がっていきます。

 藤圭子は、抱えてしまった基底欠損を、なにで補おうしていたのだろうか。
 ぼくは(26回で上げたように)「正義の旗」を掲げることで、子供時代を過ごしたと書いています。これは、ぼくにはとても実感のあることです。マイナスを埋めるには大きなプラスが必要で「正義」はすべてを埋める格好の存在なのです。
 次は、藤圭子というよく似合った衣装を着ることで新しい人生を生き抜きます。そして、一旦は藤圭子をやめるのだが、最後にこだわりを見せたのが「藤圭子の歌」だったのだと思います。

 藤圭子は許せる限り技巧を捨て、地声で本気をぶつける歌い方を目指し、それは(ぼくに言わせれば)ほぼ完成に近づきます。けれど
「歌うのはヒカルのためにならないから」
という大きな足枷がそれを阻みました。

 年齢も60歳を超えました。
 13階のテラスの壁が、近づいて見えたのでしょう。誤りなのだが、近づきます。
 歌えば、こころの欠損はたちどころに回復するはずなのに、誰もその鍵を取ろうとはしなかった。
 金の力が、人の生きる唯一の証しを押し流したのです。無慈悲だけれど、現実です。

           ○


(解説)
 この篇は小説・藤圭子(全51話)の50話、終幕の直前の原稿です。
 なぜ藤圭子は母親のもとに帰らなかったのか、その秘密を「こころの変調」と重ね合わせ説明しています。
 答えから言えば、藤圭子は「レールから降りることができなかった」ということなのだろう。自分を生きることができなかった。圭子は、自分という正体がつかめなくなっていた。なぜ、どうして。いくつもの理由があります。
「正義」というタガの外れた圭子に、唯一のものは「ヒカルのために」という幾分、変形した「正義」を示す言葉だった。だが一見、美しく聴こえる「ヒカルのために」という言葉は、宇多田の手垢がついたとても不純なものなのだが、もうそれを打ち砕くエネルギーを圭子は持ち合わせていなかった。

 藤圭子の精神を唯一正位置に戻してくれる「歌」のことはすっかり忘れさせられていたし、そうなると、もう手の打ちようがなかった。

 ぼくの願い。最後に西高島平に行った時なんだ。あの時に
「母さん、苦労をかけせたから一緒に暮らそうよ」
と投げかけた声を継いで
「母さん、純子は、母さんのためにもう一度歌うよ」
と言えば人生を巻き戻せたはずなのに。

 母親と付き人のmさん、純ちゃん、3人の暮らしは「貧乏で美しい暮らし」になった気がするのだ。そいつは宇多田を見限ることであり、
「ヒカル、母ちゃんを見ていなよ」
というとても小気味のいい言葉になったのだと思う。時計は、逆回りしなかった。
「藤純子には歌わせない」
というストーリがそのまま進行してしまった。
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