父親� �
浅草のアイスクリン。
浅草の話しを書いていたら、ほとんどが父親の縁につながるものだということに気がついた。では、では、少し思い出してみるか、ということで頭を巡らしてみた。
面白いのかな、どうなのか。正体不明です。
もし順調に行くようなら、少し続けます。どうなるでしょうかねぇ。
○
ぼくの父親は、浅草でアイスクリームを作り、売っていた。
いまから100年以上前、となると昭和よりもうひとつ前、大正の頃の話になる。
「その頃にアイスクリームはあったのか」
まず、そこからして不思議でいっぱいの話だが、思い出してみるとどうやら本当らしい。
ロックの映画街で、自分でアイスクリームを作り、
「アイスクリン、アイスクリン」
場内に売り声をかけながら走りまわっていた。これがね、飛ぶように売れたそうですよ。
それは、そうだ。当時の浅草はどこに行っても、満員の町だった。ロックの人出だってまっすぐ歩けないくらいで、そこに新しものの好きが好みそうなアイスクリーム。売れないわけはない。
父親は不器用な人で、なにかを作る、料理を作るなんてのは想像もつかないのだけど、いくつかものになったものがある。そのひとつがアイスクリーム作りだった。そのはじまりの話し。
故郷の新潟を出ると、(実際は米相場で失敗し逃げてきたのだけれど)、転がるように銀座・資生堂パーラーに勤めることになった。
その前にもいくつかの仕事に就いたのだが、どれも長続きせず、資生堂パーラーになぜかたどり着いたらしい。市電(ちんちん電車)の車掌や警察官の見習いに応募した、などトバグチだけを聞いても面白そうな話しが並ぶのだが、聞き損なっている。
父親が資生堂パーラーに入った時は、フランス人がシェフをしていたそうです。
父親の言い方では
「コック長をしていたのは、フランス人だった」
となります。(名前を聞いていたのだが、忘れてしまった)
このフランス人シェフ、とてもうるさい人で、開店前、ボーイやコック見習いを一列に整列させ、ひとりひとりの前仕事をチエックした。中でもうるさかったのはコーヒーの粉で、指先にちょっとつけて舐めると、ニコッとするか怒鳴るか、どちらかになる。怒鳴る時の口上は、ほぼ一定している。
「コーヒー豆、手で挽くのです。機械はダメ。味がちがう」
と言うのです。
これが、大変なコック見習い泣かせだった。
粒のきれいにそろった滑らかな粉にするには、1時間の上、2時間近く挽かなきゃならない。開店前の他の用意と合わせると、
「これじゃあ、5時起きだ」
と泣きが入ることになるのです。それでね、そうゆうきつい仕事は決まって
「お前、勉強になるからこれがいいんじゃないか。こっからはじめろ」
事情をよくわかっていない新入りの仕事になる。
父親は、来る日も来る日も豆を挽いた。ぼくは、どんな道具を使って挽くのかまったくわからないので,いささかデティルにかけるが、だんだん早起きになって寝る間もなくなってきた、そうです。
ここでヒントがありました。ダメが出された機械挽きの粉、捨てるわけではない。手挽きで、挽き直すのです。となると、挽きの段階を上手に仕分けすれば、本番のものも作れるのでは、と考えたのです。
父親は、手で挽いた粉をサンプルにして並べ、機械挽きの粉を修正していく方法をとります。
フランス人シェフは、父親の企みを知っていたんでしょうねぇ、
「これ、ダメですね。コーヒー豆、手で挽くのです」
と度ことに笑いながら言ったそうです。
かれこれ二月(ふたつき)かなあ、一部、機械による「手挽きコーヒ」が完成したそうです。シェフがついにオッケーしたのですね。
ここで父親は、コック長に次の仕事を仰せつかります。
「あなた、アイスクリンを作りなさい」
豆を挽く、つまり回転動作を見込まれたんでしょうかねぇ。
良くも悪くも、ある種、腕っぷし仕事です。
当時のアイスクリームは、(原理で言えば)氷の入った金属のバケツの中に原液の入ったもうひとつの金属ボールを差し込みモーレツにかき混ぜるのです。これで、急速な熱交換が行われ、原液がアイスクリームになっていく、という方法です。
一心不乱にグルグル、グルグル回す仕事、ほーら、腕っぷし仕事でしょう。
父親は、これもなんとかこなした。コック長の判断が良かったのか、ただただ腕っぷしが良かったのか区別はできないが、それまでより
「早くて、たくさんのアイスクリームができる」
ようになった。
「今度もよくできたね、あなたえらいねぇ」
さあ。ここで揉めた。ジェラシーだね。日本下積み社会お決まりの姿。
「お前なあ、新米のくせになに楽してんだよ。えー、シメるよ」
と言ったか言わないか。
父親は、ここでどうやら相手を張り倒したらしい。はっきり言わないが、そおゆうことだろう。これは、つまり、いられらくなる。
さあ、次の接点はどこからだったかは聞いていない。
「浅草だッ」
と思ったのかもしれない。アイスクリンで、浅草で、「あ」つながりで目指したとはいうものの真相はわからないが、浅草に出ることになる。
アイスクリームの話を浅草の小屋主に持っていくと、どこも
「すぐできるの。できるなら明日から来てくれないか」
という。いわゆる、引く手あまただ。
小屋主たちの見通し通り、作るのが間に合わない。売れるそばから、シャーと容器の中を回すのだが、とても追いつかない。山ほどお金が入って来るとはいえ、人力には限りがある。
「あーあー、疲れて、手が棒だ」
と泣きが入って来る。昔の人間だ、そりゃあ辛抱はいいよ。けれど、その辛抱を売れ行きが追い越しちゃってるから、たまらない。
そおこおする内に夢見たいな話しが回って来る。
「あんた、声良さそうだな。どーだい、幕間に歌わせようか」
木馬館の支配人が、手招きするように声をかけてくる。当時、木馬館は日本中の民謡の殿堂で、次々とのど自慢が押し寄せて来る。民謡の天狗道場になっていた。
父親には、ひそかな夢があった。
「民謡歌手になりてぇなあ」
というもので、そこにそれ、渡りに船、いえいえ渡りに空を飛ぶ。あっという間に乗り込んだ、駆け込んだ。
とたんに商売を人任せにして、民謡中心の生活になる。よしゃあいいのにねぇ。
「それが人だ」
「ほーかいなあ」
民謡の最高峰は「追分(おいわけ)」と呼ばれるもの。
中でも、江差追分は民謡の王様と言われ、難曲中の難曲。父親、これにハマった。
「おヒョロ〜〜」
とはじまるのだが、当時の言い方としてはここだけで3年かかるとか言われる。いわゆる「おヒョロ3年」、です。素人如きがいくら歌っても、拍手は出ない。拍手が出なけりゃ、幕内には入れない。幕間芸人、つまり素人に毛が生えたもので終わるしかない。
悩んだらしい。みんな悩んで大きくなった、わけだからそれ自体、悪いことじゃない。だけんども、人はこういうとこで道を間違える。違う電車に乗っちゃうんだなあ。
どおゆう電車かといえば、ギャンブル電車。
浅草は、江戸時代からよく知られる高橋一家の縄張りで
「兄さん、うちの方にも付き合ってくださいな」
と、浅草の興行街で稼いでいれば博打のお誘いはかかるのは当たり前。付き合いだし、一種の税金だ。
真面目一途なら、ずいぶんお金も溜まったし、高じて浅草の住人なったかもしれないね。
けれど、別路線。寝ないでアイスクリームを作って、売り子さんに売らせる。本人は昼過ぎまで一眠り。幕間になると、立ち上がり、一曲歌ってくる。
想像ですが、たけしのコントと同じ、素人の歌を聞きたがる客はいない。少しふてているから、始末が悪いよね。山になったアイスクリームの売り上げをぞろっと抱えちゃあ、賭場に行く。
こうしてぼくの父親の「浅草アイスクリン物語」は、にはかに転調してくる。
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