【昭和の落語家たち 12 桂文楽】
これは、べケンヤですな。
「これはねぇ、あたしの不始末で起きたことなんで。ですからねぇ、他のものにゃぁ頼むわけにゃいかない。えー、すべてあたしの一存で片付けます」
と言いながら桂文楽は煙草入れのコレクションを長火鉢の前に並べ出した。そう、ざっと50はあったとされている。古めいてはいるが、どれも凝った江戸の細工もの。惣領弟子の小益に叱るように言う。
呼び出され並ばされた他の弟子たちは、どーもよくわからない。
「お前ねぇ、これを持って、あたしのとこにくる、あの骨董屋のとこに行っておくれ。
文楽に申し使ってまいりました。それだけ言えばわかるから」
桂文楽には、30年この方お付き合いをしていた女性がいた。(他にも女性はいるのですが、ここでの女性はつまり揉めた女性)。
その女性から
「わたしもトシだし、もういいわ、片付けましょうよ」
と申し込まれた。つまり手切れにしましょう、手切れ金にしましょうという申しだて。
桂文楽、この時のオカミさんは四人目で「寿江(ひさえ)ねぇさん」。「裏長屋の淀君」と呼ばれていたくらいで、大変に権高い。簡単にいえば威張っている。文楽もまるで頭が上がらない。
別れ話の話を聞くと、プイと横を向いてしまってまるっきり話しに乗らない。
そこで、散々、口説き(グチを言い)ながら煙草入れを並べた。結局、その値は、500万円もしたとされている。
フーッ、’70年より少し前の話です。
(そのタバコ入れですが、散逸せずに『たばこと塩の博物館』に展示されていて、今も見ることができます)
話がすむと「裏長屋の淀君」は、「苦み走ったいい女」になる。
「おい、生代子(小さんのカミさんです)…いくかい」
ド、ド、ドン、ドーン。太鼓が鳴って、陽気な民謡踊りが、さあ、はじまった。
「寝床」の中の「寝床」。
話の数がそう多くないと言われる桂文楽なのだが「寝床」もそうした演し物のひとつだった。それが、よりにもよって本人が義太夫の稽古をはじめちゃった。
「オイ、オイ、オイ、オイ」
文楽が、そのまんま「寝床」の大旦那になった。
まさかと思うがホント。
習うと演って見たくなるのはこれも「寝床」の通りで、なんと(神田明神にある)神田川で「鰻」を食事のメインにした語りの会を開くことになる。
「おい、まいったね、黒門町。神田川の「鰻」でも、あたしゃご遠慮願いたい」
と、師匠たちの(内緒だが)不評を買った。ところがだ。それを救ってあまりあるのがオカミさんたちだった。
「亭主のために、いざ鎌倉となった」のか。ずらっとオカミさん連中が舞台の前に並んだ。
桂文楽は女性が揃うと大変に機嫌がいい。
「ホ、ホ、ホッ、よござんすね」
とびきりの語り出しに、そこはそれ芸人の女房だけに、なんとも間がいいや。
文楽が唸るたび、
ドウスル、ドウスル、…ドウスル、ドウスル。
目いっぱいの女の掛け声で、桂文楽、江戸の春を行く、となる。
桂文楽は、伝説の名人です。いまさらなにを書いても二番煎じになる。たくさんの人が書いてますからね。というわけでもう二度と語られることのなさそうな話しを探し、思い出して書いています。
文楽通に嫌われる話しを少しします。(ぼくの意見です)
文楽は三代目円馬を生涯の師としていた。円馬は、声の出し方さえわからない文楽に、部屋の間取りを書いて
「さあ、お前さんはここにいるんだ。相手さんはここ。だからこっちを向いて。このくらいの声の大きさで」
と懇切丁寧に教えてくれた。ところが、円馬は仲間内での喧嘩が元で所払いになる。
ドサを回って行きついて、大阪の噺家になる。
さて、文楽は、やはり円馬が大事だ。ことあるごとに大阪に廻り稽古をつけてもらう。それは、亡くなるまで続いた。
文楽の品のいい語り口、あれは全部が関東弁じゃないよ。というのがぼくの昔からの文楽評。
関西の「まったるさ」が一枚のっていることで、なんとも言えぬ品の良さが生まれている、それが文楽節だと思うわけです。その「まったるさ」の大元は大阪暮らしの三代目円馬にある、と思っています。
桂文治の系統がベランメェの正統で、そこと比べるといかにも作られた江戸前であることがわかってきます。で、ここまで来るともう好み。
並べて聞くのは、三笑亭可楽がいいかな。可楽と文楽なら、町人と芸人。街の様子もだいぶ変わって見えてくるでしょう。
さてと、繰り返します。桂文楽が、なぜすごいかと言えば、それはもう下の数行に尽きるのです。(ぼくの落語論の3回目の登場です)
落語というのは、気分の中で伝えていくもので、説教くさかったり、押し付けがましくなったりするのを嫌います。説明語りが多い噺を、くどいとか田舎くさいなどとも言います。
よく例に出されるのはやはり桂文楽で
『四万六千日(しまんろくせんにち)…お暑いさかりでございます』
「舟徳」(のヤマ)はこの有名な一行からはじまります。これが説明なしで仕上がった、まさに名人芸。
江戸の夏の盛り、ジーンと音のするような暑さの大川の川端、船縁には川風がすーっ、この辺りまでを説明なしの一息で伝えてしまう。「四万六千日」の由来さえ、まったく説明なし。それでいて江戸の夏が伝わります。
えーと、ぼくの説明も(ひたり過ぎで)これ以上は書きようがないのでございます。
「寿江ねぇさん」、突然の病気で70年に亡くなるのだけど死の床でおよそ予想もしないことを言いだした。
「あんたねぇ、あたしが死んでもアトはやめとくれ。ずっとひとりでいておくれ」
え、え、えーッと取り巻いた周りはびっくりしたのだが
「わかったよ、ずーっとひとり、お前さんに替わるものなんてあるわけはない」
と文楽は答えた。
ところが半年も経たないうちに、次のカミさんの話が持ち上がった。弟子は狐につままれた。
ぼくの答え、文楽は芸のこと以外は「非情だった」。その「非情さ」が、さっぱりした芸風を作っている、そう思いついた時、少しゾッとした。
まだ麻布の中学生だった小沢昭一、押しかけ師匠の正岡容が新宿・末広で一席、演るというのでテケツの前でビラ配りをしていた。そこへ、不意に桂文楽が通りかかった。
「なんですか中学生が…寄席の手伝いでゲスか」
学生服の肩をさすり、金ボタンをさわる。文楽に触られて小沢昭一少年は固まった。すると、
「あ、は、これは、べケンヤですな」
と、うれしそうに肩を叩くといなくなった。
昭一少年は、2005年、小三治の誘いで末広の高座に座ることになる。
「べケンヤ」と言ってくれた文楽はだいぶ前に亡くなっていた。
楽屋口をくぐる時、文楽の声がした気がした、という。
《脚注》
*タバコ入れは、ぼくの隣の席に座る先輩が伊勢丹の広告(家庭画報)に使うことになり実物を見ることになりました。
*「舟徳」は前後編あり、つなぎに「四万六千日」が使われています。晩年は後編の頭から口演することが多くなります。そこで、さらに省略の鮮やかさが浮き出ます。
*「舟徳」の設定は大正期に直したとされますが、伝わるのは江戸の香り。
*義太夫の会は何度も行われています。神田川での会は中でも評判になった会です。
*小沢昭一は後年、小三治の立っての誘いで末広の高座に上がることになりました。「実は60年前に」と打ち明けると、楽屋のみんなに驚かれたそうです。
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