人は少しずつ
別れていく。
ー小津安二郎が伝えたかったことー
人は少しずつ別れて行き、もう戻れなくなってからそのことに気づく。
「やあ、人生くん。ひと巻きだけ巻き戻しちゃあくれないか。人生の大事なとこなんだ」
けれど、ひと巻きだけでなく、4巻も5巻も前から起きていることで、もう戻しようがなくなっている。
ぼくは小津映画が大好きだ。はじまりは子供時代で、笠智衆を見た時、老人とはこうでなけりゃあいけないもんだ。と、心腹してしまった。嘘のないように言えば、心腹なんて言葉を子供が使うわけはないのだから「いま思えば」ということなんだろう。つまり、(おかしいかな、いや、ほんとなんだ)子供にとっての「あこがれ」だったのだ。
ここからの話は、吉田喜重の話を起点としています。だから抜け抜けと書くのは少し気が引けるのだけれど、お礼を言いながら書き進めたい、と思います。
小津映画の主題はなんだろうか。
「人は少しずつ別れていく」ということなんだろうとぼくは思っている。
どうして、あの退屈な繰り返しを小津安二郎は続けるのか。あー、なんて答えは簡単なんだろう。もう少し複雑な方が救いがあるのだろうが、人は退屈な繰り返しを続けながら「少しずつ別れていく」。その事実を伝えたいだけなのだ。
映画「父ありき」の中で、父親は息子と渓流釣りを楽しむ。
二人は川に向かい並んで、釣り糸を投げ込む。まるで写し絵のように、同じように釣り糸は宙を飛び、引き上げられ、それを繰り返す。単調な動作、単調な音楽。
時を経て、子供は成長しているのだが、何年か前と同じように川に立ち、釣り糸は宙を飛び、引き上げられる。微笑ましいという見方もあるだろう。しかし、幸福な繰り返しがそうは続かないことを画面のどこかで予感させている。
映画「東京物語」、あの小津ポジションの中に、笠智衆と東山千栄子は座っている。何度カットが変わっても、つまり二人は「いる」のです。しかし、東京から帰ると、東山千栄子はいなくなっている。カゴを背負った高橋トヨが声をかける。
「さみしくなりましたなあ」
「いやぁ、こんなことならもっとやさしゅうしてやればよかったですよ」
と笠智衆は答える。
空の座布団と夕暮れがはじまる。
小津は、老いた母親と北鎌倉に住んでいた。恋人は、芸者のA女とされていたが一緒に暮らしてはいない。
いつかあるものがなくなる。小津は、それに耐えられなかったんだろう。あの有名な「壺のカット」は、なくてはならないものが「いつかいなくなる」ことを暗示したカットだとぼくは見ている。ぼくの説です。
性的イメージを唱える人たちは、壺は女性の子宮のイメージだという。もしそうだとしても、原節子という女性は「もう自分そばからいなくなるべきだ」という諦念を告げる映像とするのが正しいのではないだろうか。
子供は成長すると、親と別れることになる。「人は少しずつ別れていく」という真実は、そう、親子のことなんだ。
小津は、老いた母親がなくなるまで親子二人で暮らし、母親がなくなると酒量が増え、ついで病気が発見されさほど時間が経過せず亡くなった。それは「少しずつ別れていく」という悲しみのひとつを静かに拒否し、死んだとも言える。
小津は3歳の頃、脳膜炎にかかって意識不明になったとされている。母親は、
「わたしの生命に変えて、安二郎を守って見せる」
と必死に看病をし、おかげもあって小津は助かった。
医学が今よりまだまだ限界を抱えていた時期、「わたしの生命に変えて」という言葉には、母親の精一杯の真実が込められていたのに違いない。
小津は、撮影所から(時には東京から)うっすらと酔いながら湘南電車に乗り、天井の扇風機の首振りを見つめながら小さなカラダの母親のもとに帰っていった。
ぼくの母親は、年老いてからひとりで暮らしていた。たまたまぼくが訪ねると、コタツに入ってポツンと座っていた。
「ついでに生きてるようなものだから」
そんな時、自分の境遇を口癖のようにぼくに語ってくれた。
「昔のように母さんと暮らせたら……」
とぼくが言いかけると、母親は言葉のつづきをさえぎるように
「いいんだよ、いいんだよ、誰もそんなことは望んじゃいない」
とあっさり答えを出した。
(……ぼくは全部しゃべっちゃあいないよ。だけどどうしてそんなに話の先がわかるのさ)
と思うのだが、親というのは大したもんだ、半分話せばもうほとんどのことがわかっている。どうしてなのか。さあ、それは自分の一部になっている、ということなのだろうか。
小津が、映画監督としてひとつ抜けているのは、親子を人と人として見つめていることだろう。「少しずつ別れて行く」というかなしみは情を離れ、理にとらわれるわけでなく、風景のようにあらわれる。乾いたかなしみは、乾いた風のように画面を流れていく。
そうした時、笠智衆は少しにっこりしながら「風の中の老人」として立ち尽くしている。
ぼくが子供ごころに曖昧な中「あこがれた」のは、このある種の男らしさだったのかと思う。
人は同じことを繰り返し生きている。けれどまったく同じかと言えば、ほんの少しずつ違っている。1日1ミリ違えば、1年後には365ミリになっている。10年経つと、もう戻れない「違い」となっている。
「人は、そういうものさ」
と小津は映画で語っているのだろう。
映画「東京暮色」で電車に飛び込むことになる娘役を演じた有馬稲子は話している。「徹子の部屋」でのことだ。
「小津先生は、いつも白いシャツとチャコールグレーの背広でしょ。ほんとにいつもなのよ。
あんなに有名な先生がどうして同じものばっかり着ているのか、不思議だったの」
「小津先生のお宅に行った時、そーっと押入れを開けてみたの、そしたら同じチャコールグレーの背広がズラーっと並んでいるの。10着、それ以上かな。おシャレってこういうものかと驚いちゃったわ」
おシャレとひとことで言うのが(ごめんなさい)有馬稲子の限界だったのかなあ、と思う。
それもないとは言えない。言えないが、それより小津は執拗に同じことを繰り返したかったんだ。変わることにあらがっていて、自分のそばから丁寧に変化のきざしを見えなくしていた、のだと思う。
偶然になるのだが、有馬稲子は「東京暮色」のラスト近くで
『わたし、死ぬのはイヤ。死にたくない』
と叫ぶことになる。
小津が「死」を痛烈に描いた唯一のカットになった。
有馬稲子は、「少しずつ別れていく」というテーマの(悲しい)答えを明かしていた。気がついていただろうか。
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