クサイ芸と申しますがね、それがどういうものかどうやらほとんどの人がわからなくなってきている。
これ、実にホントのところなんだと思うよ。
「いけませんねやぇ、どうしたらいいもんか」
「いまに東京なんてなくなっちゃうよ」
などと続きます。東京云々は、やや誤解を生みますがご理解ください。
でね、説明します。
予め言っておきますが「説明する」、これが一番分かりやすいクサイ芸のはじまりで
「できることなら、説明なんかしたくねぇ」
というのが本心で、それにクサイ芸を「説明をするたび」自分がクサクなる、という自爆状態におちいります。
「クサイ」に一番近いものは「クドイ」です。表現というのは様々な裏打ちの中から生まれてきます。
文章だって、歌だって、ましてや落語だってみんなそれなりにウンチクを抱えて生まれています。
「このいわれというかウンチクを説明しないと我慢できねぇ」
という人がいるんですねぇ。でも、それ、無理。
だってねぇ、話というのは必ず一部分からはじまります。
いちいち説明ばっかりしてると、
「えー、お前さん、話が一向に前へ進まないよ、どうすんだよ」
となってしまいます。これ、表現というものの宿命です。
『四万六千日(しまんろくせんにち)…お暑いさかりでございます』
桂文楽の「舟徳」はこの有名な一行からはじまります。これが説明なしで仕上がった、まさに名人芸。
江戸の夏の盛り、ジーンと音のするような暑さの大川の川端、船縁には川風がすーっ、この辺りまでを説明なしの一言で済ませてしまう。「四万六千日」の由来まで、まったく説明なし。それでいて江戸の夏が伝わります。伝説の名人芸「スッキリした芸」の姿です。
(あー、またこの話ができて、オイラうれしい)
「たけし」映画は(特に初期のモノが)なぜ受けたか。
これも説明無視のストーリーというのが大きなポイントです。
「いちいち説明しているくらいなら、どんどん話を進めて客をひっぱちゃえ」
というのが「たけし」の表現のスタイルで、これはツー・ビートの漫才も同じです。
「その男、凶暴につき」では、とにかく撃って殺しちまう、後から理由がついてくる。見る側がストリーを追いかけてくる、のです。
この説明によらないクサクないストーリーが、ある種、粋な映画を構成しているわけです。予算の少ない安物映画のほとんどはわかって欲しい一心で説明過剰になるのですが、「たけし」はヒョイとその辺を乗り越えた。自前制作のせいが大きいのかな。もちろんその都度その都度の画の強さがなければ「客をひっぱれる」わけはないわけです。
説明というのは、裏側に「俺はえらいぞ」という自負心が貼りついています。
「なーんでかッ」必ずそうなるのです。
ここにクサイ芸のエキスが溜まっています。
歌手で言えば、自分に夢中になっている歌手がいます。アイドルですかね。自分にポーッとしている、なんぞはまるでいけません。人気を含め芸が普通に自分の一部になっているようでなきゃ、持ちません。
(歌ウマなどという)技で引きつけようとすれば、もう鼻についていけません。こいつは、ミエミエ。クサイ芸の代表のひとつです。ミエミエを超える本気が見えてこなければ到底、身内ばかりを喜ばす学芸会を超えることはできません。歌のウマい人は年々出てくるけど、じゃあ全部当たるかと言えばそうはならないでしょ。それは、こんなところにもあります。
話はあちこち行っています。(承知です。あちこち話すことで浮かんでくるというものもあるんです)
「クサイ芸の反対はなぁに、それをはじめからやらしたらいいんじゃない」
という声が当然出てくる。それなりに分かりやすいよねぇ。「クサイ芸」の反対を言葉にすると「スッキリした芸」。
「そう、そう、そのスッキリした芸だけを勉強させたらいいんじゃない」
と、まあ声は出てくるね。
ところがねぇ、そうは簡単にいかないのが芸だよ。
歌舞伎の御曹司がみんな「スッキリした芸」かと言えば、そうではないってとこでわかるでしょう。連中、何かがクサイんだね。
「オレは生まれながらのスッキリした芸なんだぞ」
という妙に鼻につく芝居をする、というのが多いのさ。
「オイラは違う」の自負が作り出すクササだね。言わば生半可なのさ。
あからさまに悪口を言わせて貰えば
「スカしているんだよ、お前」
となるわけですね。スカしちゃダメです。スカしという中身のない差別意識が作るクササが出るというわけです。スカしっ屁です、はい。
私感ですがね、なもんで今度の團十郎(十三代)もダメだねぇ、親(十二代)も辛かった。ぼくなどが愛した(十一代目の)まるで小技のない素の芝居なんてとても及びもつかない。
クサイ芸というのは自負のありようと大分関わりがあるんじゃないか、というあたりが見えてきます。
「役者がねぇ、普通にやってくれればいいんだよ。
そしたら、ぼくは何にも言わないよ、って小津先生がおっしゃるのよ」
もうおわかりだろうと思うが小津映画の4番打者と言われた杉村春子に、小津安二郎が語ったという言葉だ。
「あたしねぇ、困ちゃったのよ。普通と言われたってねぇ、もうわかんなくなっちゃうのよ」
ほぼこの辺りに答えがあるのだと思う。
普通の姿の延長。偏りこだわりのない、押しつけがましさのない芸の正体はそこにあるというわけなのでしょうね。
東京対地方という図式の中でクサイ芸を語るのは分かりやすいが、話を小さくしてしまう。あたってはいるのです。けれど洗練、ソフィストケートという視点だけで議論がすすむことになるし、要らぬ反感も買う。クサイとかクサくないとか言ってるが
「そいつは、東京優先の単なる地域排外主義か」
と受け取られてしまう。
つまりは、東京優先といううわべ思考で捉えられちゃう。ですので、あえて東京風と言う言葉を使わずに話を進めています。
もはや誰も知らない話をします。(しておかないと消えてしまう)
ツー・ビートが入会した落語協会での師匠は、松鶴家千代若・千代菊です。
「母ちゃん、もう帰ろうよ」
ばっかりが知られていますが(これもいまや知る人は少ないかな)、本職では『越中おわら節』を歌わせたら日本一とされています。
この『越中おわら節』、長い時間かけ洗練されることで元々は民謡だが土の歌というより粋なお座敷歌として進化しています。そして難曲中の難曲でもあります。
越中で立山 加賀では白山
駿河の富士山 三国一よ
の囃子歌ではじまるのですが、後年、たくさんの歌人、作家に書き継がれたオリジナル歌詞があとに続きます。
この歌、芸の世界ではまったくクサイとは言いません。それどころか最上等の芸のひとつとされます。というわけでビートたけしの師匠は、最上等の芸人となります。
単に東京風であれば良いというわけではないということがわかります。芸の持つ真の力にある、ということなのでしょう。そこでは、クサイ芸は彼方に行っているのです。
話がビューンと戻ります。ポール・ヴァレリーという仏の詩人がいます。
ヴァレリーは説明を毛虫のように嫌っていました。
「え、クサイ芸の話しに近いのかな」
そうです、実に近い。こころの中に起きた「火花」を伝えたい時、いくらまわりを描写したところで「火花」をウスボンヤリさせるだけ。
「果たしたいのは詩的再現なんだ」
というのがヴァレリーの考えだったようです。つまり、妙な説明なぞあくまで不要なものだと言っているのですね。
えーと、このヴァレリーの至言と
『四万六千日(しまんろくせんにち)…お暑いさかりでございます』
をつけ合わせるとかなりはっきりとクサイ芸の姿が見えてきます。
無駄なことはやめようじゃないか。無駄なことでドヤ顔をする恥ずかしい姿はやめようじゃないか、と言っているのですね。
だって、無駄だからです。
というような中で、不要ではありましょうが定義をつければ、
「嘘のない芸」
「オレが、オレがのない芸」
というのが芯をくった言葉かな、とぼくは思っています。
これねぇ、時間が経つと、芸が動き出し、定義に(不本意ながら)説明が必要になるのです。
そうなの、困るなあ。
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