文春の誤報からはじめます。
事案(事件でも良い)の大枠は変わらないので、当日、Aが声かけなどをしたかどうかはさほど大きな問題ではない。
次から次と出てくる新情報に
「根幹に関わるる大問題だ」
なんて力説するとハシゴが外れ意味をなくすことさえあるよ。だから情報が「出切る」のを待つしかない。
○
というのがぼくの意見でした。
ゴホン、うーむ、扇子をピシャリ、ドンピシャリ。
大騒ぎするノータリンはほぼいなくなりました。あっという間。
「フジを推すと危ないぞ」。フフフ、フ。
それどころか、中居はいよいよ悪質とか。
「あまりに手慣れている」
「中居とAの常習の手口かもしれない」
という方向に話はノビています。
情報が「出切る」のを待つしかない、というのはどうにも名調子だね。
○
河馬が夜中、川を出て歩き回りはじめた。(河田町ではなくて夜の川)
プルン、プルーン、短い尻尾を振り回すと、便が飛び散る。ゴルフボール大の茶色の玉がブリ、ブリ、ブリと宙を飛ぶ。「豆まき」みたいな「便まき」です。
「キッタネー」
○
フジは「自由」を旗印に三冠王になった。アナーキーな自由が生み出す解放感。日本に生まれた解放区のような様相。(もしかしたら)権力から手離れした自由を感じたんですね。
「ひょうきん族」万歳です。
えー、自由の旗は「ひょうきん族」が手持ちで、そのすべてでした。他は付け足し。しかし、付け足しからホコロビはじめます。(オールナイト・フジなんて、小ぃちゃなパンツみたいなもんですよ)
世俗な言い方をすればこういうのが「いいことも長くつづかない」ということなんだろうな。
○
自由をうまく扱うのはセンスがいる。どういうセンスがいるかと言えば、自由を愛する精神です。自由を貪る精神じゃとことんありません。
自由が衰えたその瞬間に「馬鹿の河馬」があらわれちゃった。しょうがねぇなあ。(いいたかないが、人間の歴史の中ではままあることさ、河馬の登場は)
ここでなんだ。ここで、横澤さんはいなかった。横澤さんがどこまでいい人だったかは、見たわけじゃない。でもねぇ、あふれる自由が、ひとつの体を成していたのはセンスがあったからじゃないか。
そのセンスをとりあえず「横澤さん」と呼ぼうよ。
「横澤さん」は河馬じゃないし、便を撒き散らさないよ。だって、生きるセンスだからね。だからさ、
「懺悔しなさい」
「はーい」
と答えるのさ。
○
頭が筋肉の河馬どもが、自由を扱いはじめるとすぐさまめちゃめちゃにしてしまう。あたり一面、空気は汚れ、創造力はなくなる。力と糞便の社会のはじまりだ。
いやーん、カバーン、そこはおチチなの。木久蔵は余分です。
横澤さんは時期が悪かったのかな、他に何かあったのかな、どっか(吉本)に行ってしまう。
センス「横澤さん」の方もやがていなくなる。
○
突然ですが、戦前の満洲で「阿片王」と呼ばれた里見甫は、
「なぜあなたが阿片を取り仕切ることになったんですか」
と聞かれると一言で答えた。
「軍人は貪欲ですから」
という答え。さーて、この答えの奥の深さを理解できる人が今日(こんにち)何人いるだろうか。(ここんとこの子供は歴史をしらねぇからなぁ)。
「河馬は貪欲ですから」
というのがこのフジ大騒動への、ぼくの答えです。まもなくわかります。ポロンポロンと便のようにわかります。
○
「馬鹿の河馬」は、いつになっても治らない。
どおしてでしょうか。はい、それはねぇ、どおしてかと言うと前から読んでも後ろから読んでも
「バカのカバ」で、
治りようがないのでした、マル。
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