2 千の風にならないよ。
ぼくはアレだめです。この世に、あんなインチキな歌はない、と思っています。
なにかといえばアレとは「千の風になって」ですね。
私のお墓の前で 泣かないでください。
私はそこにいません 眠ってなんかいません。
詩が悪いんじゃありませんよ。発声です。あの声を聞くだけで、途端に嘘くさくなる。
「ベルカントであんな大事なこと言うか」
もうその嘘くささでいやはやゲンナリです。浮ついた声、不安定な母音。なもんで体の芯にとどかない、薄い言葉。
ああいう大事なことは肉声で言うべきです。日本人はずっとそうしてきました。肉声というのは地声、身についた言葉を話す声です。
いちばんの親友が、不意にそばに座って突然、
「オレ明日死ぬけど、聴いてくれ」
と、まあ、はじまったとしよう。だが、あの発声で納得させられるだろうか。
千の風になって 千の風になって
大きな空を吹き渡っているでしょう。
まあ、無理だ。下手な翻訳劇に付き合わされたような妙な気分になるのが仕舞いではないか。
もっとわかりやすい例、
高倉健は、あんな声を出すわけはない(あの、これ大事なところです)。
「あっしの墓の前で、泣かないでください」
肉体感のある声、ここでグッときます、ついでに
「不器用ですけど」
となる、後ろの「不器用」は、ハイおまけです。
音楽性と同時にというか、いや待て、それ以上かなあ、言語性を大事にしている歌、それがコジキ歌こと歌謡曲のすぐれたところ。祭文、説経節から派生したという語り歌の歴史があります。その歴史から見れば、(時に西洋音階の方々に)虐げられながらも言語性を大事に進化してきた歌とも言えるのでしょうね。
ぼくは、そこを推すわけです。パチパチパチ。
歌謡曲が好きか、クラシックが好きか、そのリトマス試験紙は
秋川雅史の「私のお墓の前で、泣かないでください」か、
高倉健の「あっしの墓の前で、泣かないでください」か、
あなたがどっちに本物を感じるかにかかっている、とぼくは言っているわけです。
極端な例になりました。だが、歌に持たせたい言語性の「好き嫌いないしバランス」の判定には、わかりやすい良いとっかかりかと思います。実のところ「どっちも好きだよ」と流してしまうのが世間というものの常なのでしょう。
いけません、それじゃあ、
「あーたねぇ、それじゃあ話はすすみません」
とここはグイとせき止めて文句を言います。
注意と致しましては、比較しやすいように、高倉健にもうっすらメロをつけてください。結果ですが、ぼくの想像では9:1くらいで高倉健の方が大きく水をあけると思います。つまり、それが歌謡曲の存在意義、魅力です。
その核になっているのは地声です。
実は、藤圭子のシリーズで、手術で声が変わった時、地声にこだわる藤圭子にぼくはこだわりました。たかがぼくの文中のことですが、地声の音域を伸ばすことで藤圭子は声の変化を克服しようとします。その本気に打たれたわけです。
で、「本気唱法」と名付けました。
「この歌はファドに通じるね。日本の歌もここまできたか」
夜中、ひとりではじめて藤圭子の歌を聴いた時のことを五木寛之は語っています。
「歌は語るものだ」という言葉に添えば、歌謡曲にその力があるのだと思います。
人生や人間を歌う時、地声でないととどく歌にはなりにくい、そうぼくは思っています。そうではない感じ方をする人もかなりいるでしょう。います。しかし、その比率はさっきの数字9:1くらいではないかと思っています。
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