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2025年01月15日06:35

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おいらのコジキ節。

 コジキ節、乞食歌とも書きます。日本の歌、流行歌への悪口、悪態の代表です。昔はかなり言われた言葉らしい。
「え、それにしてもどう言う意味」
 ですよね。では、どういう意味なのかを速攻で説明。哀愁を込めた曲調で聴き手に何かをせびる歌、と言われています。道路端で泣き声をあげ歌っている悲しき人々の姿が浮かびますね。「それを起源とする歌だ」と言っているのです。コジキが歌う歌という意味。しかし、よくも、まあ、これだけ意地悪なことを思いつく人がいるものだ。

「さぞかし悪い人なのでしょうねぇ」
「いいえ、さぞかし立派な人なのです」

 えーなんと言いますか、辰野隆のお言葉と言われています。辰野隆は東京帝国大学でフランス文学を教えていた仏文学の第一人者。その名文・名訳は三島由紀夫の「文章読本」の中のマラルネの項を読めばすぐわかります。(もうそれで十分なのでぜひ、目を通してください)
 この日本のフランス文学の権威が、「日本の歌は、ほぼコジキ節につきる」とまで言う。困ったもんだ。だから、東大は嫌なんだ。

 あの学校の方は
「豚に歴史があるか」
と言った歴史学の権威がいらしゃったり、とか立派すぎる人がいるんですね。だけれど立派すぎることは、すべて立派なことだけで世の中を作りたくなる。という誤りを平然と生むのです。

 コジキ節などはその通例、自分たちが良しとした西洋音階に沿ったものでなければ「真っ当なもの」とは思えなくなっているのですね。頭にギブスがかかっているのです。つまり世界が狭いだけのこと。いやもしかすると、自分たちの都合でわざと世界を狭くしているとも言えます。

 西洋音階というのは人為的に音の周波数を7つに区分けしたに過ぎないんですね。この7つの区分けが和音を作り出す時など実に数学的にうまく整理ができて、言ってみれば音による論理的快感を呼ぶ構成になっているのですね。

 では、西洋音階を外れたものが非音楽かと言えばとんでもない。

 ところが教育された(されすぎた)頭は、それを拒絶するんだなあ。
 受け入れない。ひどく言えば雑音にしか聞こえない。これが、数行前に書いた「つまり世界が狭いだけのこと」なんですね。しかし本人たちは「正論を言い続けている」と思っているから始末が悪い。

 先日、小さい子供を連れてスーパーに行っていた。子供は小さいしねぇ、騒ぐよ。騒ぐの仕事。そしたらレジで並んでいた中央線のオバサンの代表のようなご婦人が
「うるさーいッ」
とぼくらに一喝です。
 その時、すぐに思ったね。
「あっ、この人、音大出」
 だから、子供の声が雑音にしか聞こえないんだろうねというのが、その時のぼくの反応です。(うるさいのは、その通りでごめんなさい)。

 子供の声はうるさい、しかしあそこまで「正論面(づら)」ができるかと言えば何か支えがいりますよ。その支えは西洋音階かなと思ったのです。
 続いて、なぜか「中央線はこれだからなあ」と思ったのですね。中途半端な教養主義の中央線。ぼくの偏見が頭の中でクルクルって回りました。

 えーとコジキ節の話です。
 西洋音階だけが唯一のものだと決め込んで、コジキ節を責めたりしないでよ。
「あーたねぇ、了見の狭いことを言いなさんな」
と言いたいわけ。
 だいぶ前に亡くなった指揮者の岩城宏之は、ある日「プレィバックpart II」で日本の歌、ま、歌謡曲に目覚めて毎夜、指揮棒を振りながら歌っていたそうです。この事を、
「ここで人生がひらけた」
とまで本人が言っていたそうです。

「あー、いいねぇ」。
 これ、正直でいい話だと思うわけです。偏りを感じないものね。と、ここまで書くと辰野隆のお言葉がいかに一方的で偏見に満ちたものだとわかるでしょ。コジキ節がどれだけ人間を語っていたかと言えば、そいつはオペラを問題にしないと思うよ。 (狭い了見で)音楽に上級・下級の差別を持ち込むのはいけません。

 つまりねぇ、これは自由は大切なものだという話。偏りは知らぬうちに人を不自由にする、という話を音階でしてみましたよ。

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