宇多田ヒカルの歌声は「ゆれ」ている。いつも「ゆれ」ている。そう大きくはない。かすかだけど、コーラスのように「ゆれ」て鳴っている。
図解してみようか。ヒカルは、自分の歌声のバックにいつも自分コーラスの「ゆれ」をつけている。そのバックの「ゆれ」が一音一音、聞き手のこころを干渉させる。これが宇多田ヒカルの音楽の魔法なんだ。
わかりやすくなるかなあ。こころの「ゆれ」はそのまま歌声の「ゆれ」となっていて、聞き手のこころに干渉し「ゆれ」が形となって伝わっていく、という構造だ。
倍音ではなく「ゆれ」というある種マッサージ効果であることも、気を止めて欲しいところ。
藤圭子が「小節が逆だから」という理由で、ヒカルに演歌を歌うのを禁止したのだけど、その話の正体はここにあって、それは「ゆらぎ」という音声の物理的特性から出ている。ぼくなぞは「小節が逆だから」というつかみに藤圭子の天才性を感じてしまうのだが、いまや通じない話なんだろうね。
中学校しか出てなくて、正当な音楽教育を受けていないはずなんだけど、藤圭子はそれはそれは勉強家だから理解していたのだ。
かつては「1/fのゆらぎ」という名称で、「ゆれ」はクラシックの世界でも声の効果の一つとして確立されていた。
それが研究が進み、量子力学的分析なぞが提唱され、「ゆらぎ」は時間や位置を超えていくことができるのではないかという仮説まで議論されている。それが現状のようだし、その量子論がヒカルの主題になってきた。
新曲で「2001年宇宙の旅」をなぞっているのは、時を超えるものになりたい自分の声をテーマにしている、ということなんだろうね。そうすれば母親のところまで「自分の声は届くかもしれない」という夢中な願望なんだろう。そう思うといささか泣けてくる。
ほぼ誰も知らない話だが、実は、藤圭子は森進一を尊敬していた。
それは森進一の歌声にある。
森進一の歌声は、あるドキュメント番組で、上下に「1/fのゆらぎ」を持つ声と分析された。上か、下か、どちらか側に「ゆらぎ」を持つのがせいぜいなのだが、森の上下の「ゆらぎ」に
「これは、もう、泣いているとしか言いようがありませんね」
と音響研の鈴木先生(先代です)が話していた。
例にあげたのは「ファド」と韓国の「泣き女」だった。
ぼくは「なるほどなあ」と感心をした。
その一年後くらいだろうか(もっと経っていたかもしれない)、藤圭子は森進一の「さらば友よ」をカバーした。
普段は過剰な小節を使わない藤圭子なのだが、この時の歌は森進一を超える「ゆれ」を持つ歌だった。その上、森進一が指摘されていた詩の聴きずらさも見事にカバーしていた。
ぼくの中では、「ゆれ」とはなにか、「ゆらぎ」とはなにか、の教科書のように存在している。
ずい分、遠くまで来てしまったようだ。1970年代だ。
ヒカルの歌は3つの魅力でできている。と、まあ、ぼくは思っています。
�_寮爾了�つ「ゆらぎ」
��日本語と英語の自由な選択
�F�本語を超えるゆたかな母音
�△砲弔い憧蔽韻弊睫澄�
The Flavor of Life.
直訳すれば「人生の香り」ですよね、この「人生の香り」を伝えたい時、The Flavor of Life.を選択できる自由さこそが宇多田ヒカルなのだと思います。和製英語ではないので、気持ちのいい音感があります。「人生の香り」という日本語の持つ重さ、古さから離れることができます。
つまり、自由な感触を言葉に持たせる、もう一つの能力があるということです。この自由な感触というのが大事なところで、理屈にすると置き忘れてしまうところです。
��については、以前「流星のひと・番外編」で書きました。
しかしですよ、母の力は大きいなあ、と思うのです。だからねぇ、いちど藤圭子の歌を歌って欲しいと思います。あなたにも必要な時期になっている。はず、です。
「母ちゃんの面影平野、カッコいい〜」
という言葉が夜空に響いた日からどのくらい経ったでしょうか。
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