「不適切にもほどがある」が終わりました。
最終回の数日前に、自民党、二階氏の
「お前にも歳はくるんだよォ、バカヤロー」
発言が飛び出して、昭和の不適切パワーが見事に再現され、「む、む、こういうものか」となりました。(それに不適切のおかしみも出ていました)
この一件でタイトルのわかりずらさが一気に解消できたのかな。
クドカンの魔力が起こしたのでしょうかね。
○
いわゆる主役級と言われる役者なしで進行するドラマ。
このトライが成功しているのか。数字は取れたのか。いけてる気はするのだが興味深々です。(番宣の勢いから察すると、きっと良さそうですね)
ちなみにこのドラマに出ているだけで役者は「イマイチ状態の証明であるわけで」、それをきっと本人たちもわかっているのでしょうね、それさえ面白さの熱源となっています。
○
大量のイマイチを出すことで「見たことあるような」効果というか、独特なノスタルジィ効果が生まれています。
古い映画を、見たような感触です。錦戸亮が良い例。異空間に迷い込んだのか、と一瞬、迷います。「ここは何処、私は誰」という哲学的なカットです。
イマイチ役者の「なんとかせねば」魂が、このドラマ全体をホットにしています。これはもう何物にも変えがたいよね。
学生演劇のような熱があります。吉田羊とか古田新太はすっかり本気です。
ぼくは古田の鼻のゾンデは古田自身の案ではないかと思っています。アレは最高ですね。視聴者との距離を一気に詰めています。
○
古田の「お父さん」の一言で、このドラマのすべてが表現されている気がします。
帰らない時、帰らない夢。あまりカッコよくはないのだが、人はそれぞれにコクコクと時を失いながら生きていく。
どこで立ち止まるのか、さあ、現実の中ではわからないものなのだよ。
思い出せば「あの時」かもしれない。そうした「確かめ算」も出来ずに生きていく。
あまりカッコよくない古田は、普通の人の人生の「旅姿」を再現しています。
なんと、やっとこさっとこ酸素ぶら下げて、パジャマ姿でね。
「みんなかっこ悪く生きてるんだ。そうだろう」これが答えです。
反対に「ジャニーズなんてやつら知ったことか」というのが隠し味。嘘人生より、実人生です。あのー、つまり、同じひとりの人間なのだけど、錦戸は偽物で、古田は本物です。これなら親も納得します。
錦戸を起用した意味が、これで明確になります。クドカンはよく考えている。
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純子のブッキラトーク「金、くれー」は、「お前が好きだよー」と言ってるようでとても歯向かえないよ。純子のはみ出した口紅ような濃厚なリアリティが、数年後の関西地方の「アレ」で消滅する。
はみ出した口紅は帰ってこない。おーい、おーい。声だけで呼び戻せるのか。
人は記憶の穴を探して縦横無尽生きていく。あの日は、記憶の穴の中にある。
(ほらオタクのトイレの中にもあるかもしれないよ、というクドカンの謎かけです。)
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