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2024年03月10日06:15

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「時には母のない子のように」

○2011年10月19日の日記再掲載

時には〜 母のない子のよう〜に
だまって 海をみつめていた〜い

 ぼくらの年になればほとんどが「母のない子」なのだが、それにしてもこの詩の哀切ぶりには思いのほか泣かされるね。グビッと胸の奥に忍び込んでくる。

 カルメン・マキ。歌手。黒い髪、黒い大きな瞳、貧相といってよいほどのやせたカラダ。
 作詞、寺山修司、なんども母親を文中で死なせた男。剽窃の詩人。(実際は母親は寺山より長生きをした)

 母親から決別するように、若者たちが都市を目指した頃に大ヒットした。「家出の時代」を作り出したひとつだ。

時には〜 母のない子のよう〜に
ひとりで 旅にでーて みた〜い

 カルメン・マキがラジオでこの歌を歌っていた。ほとんど変わらぬ声。少しかすれて、なげやりな感じは押さえ気味。
 あー、この歌手は、やっぱりすぐれているなあ、キワモノではなかったなあ。というのがぼくの感想。そうしてもはや「母のない子」である自分の人生を思い浮かべてみる。

 喪失感、あてどない人生。
 港のない船、目的のない闘い。

 母はいない。けれど他に愛すべきものは、もっているのか、俺は。母ほど愛してくれるものをもっているのか、俺は。いや、つくりだしたのか。子はいつの日か親になるしかないのだ。
 ま、かんたんに言えば、それが人生の順序なのだろう。人生の順序をきちんと踏めないやつはどうしたらいいのか。

ドンドンドン、ドンドンドン
「修ちゃん、いる、いるの」
 夜中、寺山の新居のドアを毎夜、狂ったように叩く母親。
(修ちゃん、お母さんとあの人とどっちが大切なの)母と子の相克のような人生。

母のない子に なったな〜ら
だれにも 愛を〜 はなせな〜い

 母と違う女性と愛の話をするのが、「母さん、許せない」というのかい。寺山はうろたえ、妻は寺山をドアの外に押し出した。母を連れて、家に帰った。

 小学校だったかな、中学校だったかな、教科書の中でシャガールの『時には母のない子のように』というタイトルの画を見た記憶がある。

 暗いウクライナの草原の空に漂う、母と子の魂、牛、羊も空を泳いでいる。みな、遠く漂うようなウツロな目つきで画面の外をみている。

 寺山もきっとこの画を見たにちがいない。ぼくはポカンとそんなことが思い付いた。剽窃の詩人なら、このくらいはやりかねない。いや教科書というのがいかにも寺山らしい仕業なのだ。そうだ、ちょうどいいじゃないか。そうだ、それにちがいない。となにやら確信めいたものが浮かんだら、次にリリースされた歌の詩を思い出した。

 タイトルは「だいせんじ がけだらなよさ」やはりカルメン・マキの歌で、小さなヒットになった。
 逆さに読むと、井伏鱒二のあの有名なフレーズがあらわれるという不思議歌だ。

さみしくなると言ってみる
ひとりぼっちのおまじない
だいせんじ がけだらなよさ

「ひとりぼっちのおまじない」は「だいせんじ がけだらなよさ」と教えてくれるのだけれど、実はこのおまじないには秘密があって(逆さに読むと)、ホントが出てくる。それはね「さよならだけが じんせいだ」ということなのさ。そうかい、母をなくすことってのは、裏返すとそういうことなのか。ずい分わからせてくれるねぇ。

 この仕掛けに込められた寺山の才気に頭を下げて、きょうも仕方なくグッバイです。



注:「だいせんじ がけだらなよさ」→「さよならだけが じんせいだ」
  (サヨナラだけが人生だ)があらわれる。
注:井伏鱒二は太宰治の師匠で「サヨナラだけが人生だ」のフレーズは、太宰が井伏から借用したとされています。
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